【知道中国 445回】      一〇・九・初九

     ――ある明治の手弱女・・・秘められた益荒女ぶり

     『カラチン王妃と私』(河原操子 芙蓉書房 昭和44年)

 「明治三十三年の夏、長野県の県立高等女学校に職を奉ぜし時のことなりき。宿痾漸く癒えて、身は再び自然の健康を楽しみ得るに至ると共に、厚き氷の下に暫く閉じ込められし我が宿志、即ち清国の女子教育に従事したしとの希望は、暖き春の光に浴せし草木のごとく萠えそめぬ」――書き出しの数行を読むだけでも、著者の清冽な志に心打たれる。

 明治教育界の重鎮である下田歌子の知遇をえた著者は、横浜の華僑子弟が学ぶ大同学校を経て上海へ。「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経営」される清国最初の女学校である上海務本女学堂へ奉職する。その折のエピソードの数々が綴られているが、こんなのもある。「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に運動せしむる様に努めた」が、「多年の因襲の結果としての」纏足から「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。よろよろと歩かざるをえない彼女らは、「されば大なる我が足、といいても普通なるが、彼等には羨望の目標となりしもおかしかりき」。

 やがて「明治三十六年十一月ニ十二日、空は隈なく晴れて、塵ばかりの雲もなきに、かしま立ちする心も勇みぬ」と上海を離れる。塘古、北京を経て最終目的地カラチンへ。

 「カラチンはいずこ、北京の東北にあり。途中の旅に九日ばかり要すべしと。(中略)長城以北の宿りは天幕にもやあらん、あるいは馬賊の難あらんも測られじなど、問えば問うほど気づかわしさの増す答のみにて、かよわき女の身には恐ろしくさえなりたり」。だが「恐ろしいといい不安に感じて躊躇するは、無事太平の世に於いての事、今わが故国は、二千数百年來未だ曽てなき重大の時期に臨み、まことに国家興亡の秋なりと聞」かばこそ、固い決意を秘め、著者は旅立つ。

 日露関係は極度に緊迫の度を加える。彼の地では日露双方の熾烈な諜報工作や後方撹乱戦が展開されていた。もちろん著者もまた日本側工作の後方支援に努めたが、その一方で内蒙古カラチン王府の教育顧問として王妃の助力の下に内蒙古最初の女子教育機関である毓正女学堂の経営に当った。第一期生は「王妹及び後宮の侍女と、王府付近に居住せる官吏の子女とにて、二十四名という数に達したり」。ある週の教科をみると、日文、算術、日語、唱歌、体操、図画、家政、編物を著者が、習字、漢文、蒙文、歴史、修身、地理などを漢族や蒙古族教師が担当している。「やまとなでしこ」として育てようとする著者の目標を、「先生、どうぞ蒙古の人になって下さい」と希求する王妃が心温かく全面的に支える。

 ある2年生は作文の時間に、「ワタクシハ、ハルガタイヘンスキデス。ナゼスキデスカ。イロイロノハナガキレイニサイテヲリマスカラ、ワタシハスキデス」と綴った。

 「明治三十九年一月」、名残惜しくもカラチンを去る日、「三人のカラチン少女は、境をこえて旅すること初めてなり」と、日本留学を目指す3人の少女を伴い帰国。はたして今、著者がカラチンの地で営々として育んだ日本の痕跡を認めることはできるのか。

 その後、著者は横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮氏と結婚。「敵地に等しい蒙古に、重任を負いて単身入込たる心身の苦闘」を周囲に一切感じさせることなく、一宮夫人として働く傍ら、「新進の国を識りたいと熱望している研究者、学者等」の日本理解に努めた。コロンビア大学で学んだある知日派米人は著者を「称えても称えたりない」と。  《QED》