【知道中国 448回】      一〇・九・仲五

    ――(有為転変+支離滅裂)×(勝手気儘+猪突猛進)=歪々斜々

    『60年語録 1949-2009』(袁起・鄒国良・文朝利編著 中国発展出版社 2009年)

 この本は、1949年から09年までの60年間に全土で叫ばれたスローガンや時々の社会風潮を反映したと思われるキーワードを年毎に選びだし、解説を加えながら、建国以来の60年を改めて見直そうとする。いわばキーワードで読み解く共和国60年史といったところか。

 巻頭を飾るのは、もちろん「同胞たちよ、中華人民共和国中央人民政府は本日を以って成立した」。あの日、毛沢東は天安門の楼上から中華人民共和国の建国を傲然と宣言した。あの時、大多数の中国人は新しき時代こそ平穏で豊かであれかしと心から祈ったはず。だが、期待はものの見事に裏切られる。毛沢東という新しい皇帝は猛々しくも階級闘争は永遠に継続すべしとの哲学の持ち主だった・・・舵取り、革命狂いで、船、激浪に翻弄さる。

 中国政府が高等教育制度の大改革を進める過程で、50年代初頭には大学から社会学講座を廃止するとの噂が広がる。これに危機感を抱いた高名な社会学者の費考通は毛沢東に向かって「社会学の子孫を絶やすようなことだけはなさらないでください。一本の木でも、いや1つの苗でも構いませんから残しておいて下さい。お願い致します」と直訴・哀願するが、「残さない。子孫根絶やし」のたった一言。かくて53年、政治学などと共に社会学もまた大学の教育から姿を消す。当時の費は全国人民代表大会副委員長で共産党に協力した民主諸党派の一角を形成した民盟中央主席、つまり建国の功労者の1人だったはず。

 58年、毛沢東が大躍進を掲げるや、全国で人民公社化が一気に進展する。この年10月中旬、湖北省の跑馬人民公社の共産党幹部は公社員(=農民)を集めた大会で「11月7日は社会主義が幕を閉じる日であり、11月8日は共産主義が始まる日である」とブチあげたそうな。かくて、演説が終わるや、誰もが我先に公社の商店に殺到し品物を持ち去った。商店に物がなくなると、次は仲間の農家にズカズカと。他人の家の鶏やら豚を持ち去り、あっちの公社の野菜を勝手に引っこ抜いて持ち帰る。子供までがヒトのものはオレのもの、である。なんせ、もうすぐ共産主義がやってくるんだから。かくて多くが真面目に働かなくなり、自然災害も加わって4000万人ともいわれる餓死者をだす始末。だが毛沢東は屁のカッパ。蛙のツラになんとやら。「我々は社会主義の経験が不足していた」と嘯くのみ。

 79年12月末、毛沢東路線とは真反対の対外開放路線に踏み切るや「アメリカへ、アメリカへ」と若者は出国熱に煽られ、「自転車、トランジスター・ラジオ。飲まなくても食わなくても、お前が欲しい」とばかりの激烈な消費ブームが到来。次いで「10億人民のうちの9億は商人で、1億は開店準備中」と形容された起業ブームが巻き起こる。やがて89年になると株式投資ブームが。「たったの3日で8億元」。ボロすぎる儲けなら、誰だって証券会社の店先に殺到するさ。勝ち組も勝ち過ぎると嫉まれ恨まれ犯罪者として逮捕される。そこで獄舎に繋がれた元勝ち組は、「人は濡れ手に泡の商法というが、これこそが無形の資産、いわば高度な智慧を最高に運用しての商売だと確信する」と尻をまくってみせる。

 この本は、開放から30年が過ぎた09年の「“山塞”の風は、あまりにも強烈に吹き過ぎる」で終わっている。山塞とはパクリのこと。海外有名ブランドのコピー商品はいうにおよばず、いまやタレントのパクリまでが“山塞文化”の看板を掲げて堂々と営業に勤しむ。

 建国から60年の粒粒辛苦の末が山塞文化だった・・・ほーッ、先祖還りですか。  《QED》