【知道中国 449回】      十〇・九・仲七

      ――デタラメ、提灯持ち、ゴマスリ、媚び諂い
      『中国案内』(白石凡編 筑摩書房 1968年)

 この本は「世界史に、あらたな歩みをすすめる中国――この巨大な隣国の歴史と革命の本質を解明し、私たち日本人のとるべき道をさぐるシリーズ」として出版された『講座 中国』(全5巻)の別巻で、中国の風土、民族、風俗、習慣の解説を交えた一種の旅行案内である。因みに5巻の書名と編者の名前を挙げると、『Ⅰ 革命と伝統』(竹内好・野村浩一)、『Ⅱ 旧体制の中国』(吉川幸次郎)、『Ⅲ 革命の展開』(野原四郎)、『Ⅳ これからの中国』(堀田善衛)、『Ⅴ 日本と中国』(貝塚茂樹・桑原武夫)――最高の知性ならぬ恥知らずの痴性、耄碌した駑馬たち――書き手の名前を並べるだけで、内容の推可は可能だろう。

 思い起こせば、1968年とは日本のメディアが親毛(=親中)派に占拠され、中国バンザイ、毛沢東バンバンザイを叫び、文革を「史上空前の魂に触れる革命」と狂喜乱舞して持ち上げていた時代の真っただ中だった。しかも編者が“日中友好屋”の総元締め的存在だった白石なら、別巻であるこの本もまた、先に挙げた5巻と同じように中国への礼賛、大絶賛、大々礼賛のオンパレードに充ち溢れていることは、もはやいわずもがな。どの頁を繰っても虫唾が走るようなチョウチン記事ばかりであることは間違いない。

 率直にいって、これは正真正銘のトンデモ本。改めて読み返す必要はなさそうだ――と、ここまで書いてしまったら身も蓋もない。だが、であればこそ、21世紀も10年が過ぎた今日の時点で、気恥ずかしさを堪えながら敢えて読み直してみる必要がありはすまいか。

 この本によれば「感性的、現実的なのが、中国人のものの考え方の特色」であり、彼らは「道義に厚い民族」だそうだ。そこで飛び出すのが、「鍵の要らぬ国」という一種の“常套句”だ。かくて「ホテルで部屋に鍵をかける必要のないことは、先にも述べたが、泥棒の心配のない国といえば、今日世界広しといえども、中国だけであろう。それどころか、忘れ物でもしようものなら、その品が工作員の手でリレーされて、後から後から追いかけてくる。場合によっては、忘れ物のほうが先まわりして次の目的地のホテルにとどいていることさえ珍しくない。・・・中国には、古くから『道に遺ちたるを拾わず』――道に落ちているものを拾って自分のものとしない――のが、よい世の中だとする言葉があるが、今日の中国では、文字どおりそれが実現されている感がある」ということになる。

 70年代前半、留学生活を送った香港で知り合った複数の元紅衛兵に「今日の中国では、文字どおりそれが実現されている」のかと質問するや、彼は嘲笑気味に「バカ正直にもほどがある。先ず中国にはモノがない。ましてや外国製の高級品なんぞ、一般人民が手にできるわけがない。かりに外国人旅行者から盗んで持っていても、誰もが360度から24時間監視されているんだ。家族だって信じられない。誰かに見つかりでもしたら、反革命現行犯で人民裁判だ。ホテルの部屋に鍵をかける必要がないのは、モノ盗り目的に侵入でもして見つかったら、これまた中国人民の面汚し。毛主席の顔にドロを塗ったということで、人生は終わりさ。忘れ物をリレーするのは、外国製を持っていることが他人にバレたら、ブルジョワ思想に毒されているとの罪で逮捕。極刑だって覚悟さ。ともかく外国製品を持っているだけで将来は真っ暗。そこで、ともかくも他人に渡す」――これが実際の姿だ。

 白石らは世間を誑かし続けた。時代は変われど、今もこのテの面汚しは消えない。  《QED》