【知道中国 450回】      一〇・九・仲九

     ――公社制度が壊れて貧富の差が生まれてしまった・・・

    『殷墟 奴隷社会的一個縮影』(河南省安陽市文化局編 文物出版社 1976年)

 出版時期と副題から、読まなくとも、この本の主張は容易に想像できようというもの。とはいえ、それでは味も素っ気もない。そこで、この本の記述を追いながら、殷墟に対する70年代半ば、つまり“文革の黄昏”の時期における公式的見解を見直してみよう。

 「殷墟とは商代の盤庚から紂の時代(西暦前1395年から1123年)の間の王都の所在地であり、当時の政治、経済、文化の中心だが、商が周に滅ぼされた後、この王都も日に日に荒廃して廃墟と化し、長い間捨て置かれ、地下に埋没してしまった」。以後、清末に至って古代の文字が刻まれた亀甲や骨片が多く掘り出されるようになり、「1929年から考古学者による発掘がはじめられたが、解放前の旧中国においては殷墟に対する考察は微々たるものだった」。そして、これからが共産党政権が公認する公式的な“常套句”の羅列となる。

 「新中国が成立することによって、殷墟に対する考古学的工作がやっと重大な進展をみせるようになった。

 「この遺跡と出土品は、商代奴隷社会の政治、経済、文化などの歴史の面貌を明確に反映し、奴隷社会の階級対立と階級闘争の絵図を鮮やかに描き出している。

 「原始社会において生産性は極めて低く、人々が使用していたのは石でできた粗末な道具だけだった。だから集団労働によって、漸く物質生活の問題を解決できたのだ。当時の生産手段は公有であり、労働の成果によって公社の構成員全体の生活を維持するための需要をなんとか維持できた。余剰物など一切なく、共同で平均に分配されていた。当時の人々は平等に民主的権利を持ち、共同事務に参加し、民主的に選ばれた公社の指導者は公社の管理事務に当たるだけで、如何なる特権も持たず生産労働も行っていた。私有制も、貧富の差も、階級も、搾取も圧迫もない社会だった。

 「原始社会が発展を重ねた晩期、生産手段の絶えざる改良によって生産力は向上し続け、個人単位での生産が可能となった。先ず牧畜と農業の分化、次いで手工業または農業を脱した独立生産部門の分化と、社会は前後2度の分化を遂げることで労働生産性は向上し、人々の労働が生み出す生産物は自己の生存を維持するだけでなく、初めて余剰分が生まれるようになり、生産物の交換も日に日に活発化し拡大するようになった。

 「私有財産が生まれることで、貧富の差という現象が出現することとなる。公社の構成員において、わけても指導者などは自己の職権を利用し交換の過程で公のものを私のものとすることで、彼らの手を経て交換された産品が蓄えられていった。かくて彼らは財産を増やし遂には富者となり、他の多くの公社構成員は貧困になったのだ」

――といった過程を経て奴隷制社会へと移行するわけだが、殷墟からの出土品で奴隷制社会の姿を具体的に明らかにすると同時に、「商代の奴隷による消極的なサボタージュが一般化していた」とし、その証拠として出土品を示しながら「商代の奴隷が道具を破壊していた現象」、ひいては「奴隷たちの反抗闘争」を明らかにしようと試みている。

 この本の「公社」が1958年に生まれ80年代初期に鄧小平の手で解体された人民公社でないことは当然だが、公社成立→度重なる闘争→改革・開放→私有財産→公社解体→貧富の差拡大という現代の歩みが、古代のそれに奇妙に符合して仕方がないのだが・・・。  《QED》