【知道中国 458回】       一〇・十・初一

     ――「密使」とは粛々と黙々と人知れず消え去るもの・・・だろう

 いまからちょうど40年前の1970年秋に香港に留学し、1年ほど過ぎた頃だろうか。ある大先輩から「前の山梨県副知事の田中徹雄さんが香港に行くから何でも手伝うように」との手紙が届いた。確か当時、田中さんは県知事選挙で金丸信の推す候補に破れ、食客のような立場で福田派の周辺に草鞋を脱いでいたように思う。

 指定されたホテルに訪ねると、ボーイと流暢に会話している。「最近の流行語はサッパリ判らんが、まあ困らん程度には」とテレながら、「これでも東亜同文書院では真面目に中国語に取り組んだもの」と。香港の街を案内してくれというから、観光客なら先ず行かないような場所を選んで歩いたが、2日目の夕方だったように記憶している。「今夜は面白い経験をさせてやるから」と、老舗の北京料理屋へ連れていかれた。

 恰幅のいい中国人紳士が2人、店の奥の席に座っていた。「好久没見(おひさしぶり)」などと握手を交わした後、酒と食事である。暫くすると田中さんが、「ところで、あの時、あんたは確か、こんな服装で、あの部屋に飛び込んできたなあ」。すると中国人の1人が身振りを交え、「あなたに拳銃をこっちの手にこう構え、こんな顔して、仁王立ちしてましたね」。田中さんは「あの部屋の隅にはこんな椅子が置いてあって、あんたは、あっちの方から、こっちの方へ体を移して・・・」

 じつは田中さんは昭和21年12月、単身で敵地に乗り込み、上海の某所に拘束されていた愛新覚羅浩を救出した武勇伝の持ち主。「流転の王妃」と呼ばれた彼女は嵯峨公爵令嬢で溥儀の実弟である溥傑の夫人。いま話している相手は、その時に対応した中国側の現場指揮官で、当時の中国外相の側近中の側近とか。2人は何気ない会話の中から、相手が本当に命のやり取りをした旧敵で、信頼に足る人物なのかを探り合っていたわけだ。

 当時、永田町ではポスト佐藤をめぐって田中対福田の間で熾烈な権力闘争が展開されていた。田中は日中国交回復を進めることを公約に掲げ、大平はもちろん中曽根、三木などを抱きこんで多数派工作を展開していた。田中の密使で北京に出かけたのが、確か当時の公明党の竹入委員長ではなかったか。これに対し、反共産党の立場を鮮明にする台湾支持派議員を多く抱える福田派に中国側が強い拒否反応を示し、福田派は劣勢に立たされていた。当時、福田は「アヒルの水かき」などと口にし、自派もそれなりに北京中枢とのパイプを築きつつあることを仄めかしていたもの。田中さんは旧敵から、そのボスの外相の線を手繰り寄せて、周恩来に福田の真意を伝えるべく香港に赴いた密使ということになる。

 その夜遅くホテルに戻ると、田中さんは「この工作が成功したら近日中に北京へ飛び、周恩来に福田の親書を渡すことになるが、秘書として行くかい」。願ってもない歴史の瞬間に立ち会えるわけだから、是非もない。「お願いします」。2,3日待ったが中国側からは色よい返事届かず。「角さんの線が強すぎてダメだそうだ。残念だが北京行きはなし」と、日本に引き上げて行った。程なくして、田中さんの急逝を知らされた。福田の密使話を田中さんは地獄に持っていったのか。遠い昔の田中さんとの思い出は、もう時効だろう。

 それにしても民主党の前幹事長代理とかが北京を舞台に演じた今回の“密使騒ぎ”には驚かされた。メディアを引き連れたバレバレの密使はない。それとも高度な陽動作戦だったのか・・・まさか。しょせん素人の田舎芝居は足元を見透かされるだけだ。いったい将来、どんな高いツケを払わされるのか。耳を澄ませば、中南海から高笑いと共に次の6文字が聞こえてくるようだ・・・「好戯還在後台(やはり面白い芝居は楽屋の方で)」。  《QED》