【知道中国 462回】       一〇・十・初九   

     ――理不尽な死、晴れぬ恨み・・・死の周辺の不条理

     『北京的鬼』(杜斌 夏菲爾国際出版 2010年)

 流れ出て黒く変色した血のような赤黒い色だけで塗られた表紙のど真ん中に、大きなしゃれこうべ。何かを訴えかけるような口元。共産党のシンボルであるハンマーと鎌の柄が頭蓋の部分に突き刺さっている――こんなデザインの表紙が、この本の凡てを物語っているといっていい。

 中国の「鬼」は、角を生やした赤や青の顔をしたそれではない。霊魂であり悪霊なのだ。著者は北京、つまり共産党によって心ならずも死に追いやられた人々、或いは非命に斃れざるをえない立場に立たされた人々、理不尽み扱われ恨みを残して死んでいった人々の姿とその周辺事情を克明に、しかも感情を抑え淡々と記録し続ける。

 旧満洲を舞台にした国共内戦が最終局面を迎えていた1948年5月、戦略上の要衝である長春の市内は数10万の市民と10万の国民党軍で混乱していた。5月23日、毛沢東が完全封鎖を指令したことで、長春は“死の街”と化す。食糧価格は一気に700倍に跳ね上がり、国民党軍は市民を街から追い払うことで自らの延命を図った。ぞろぞろと郊外に脱出しようとする市民を、「共産党軍は殴り倒し、罵り、縛り上げ、撃ち殺すなどの方法で押し戻す。・・・数え切れない市民は餓死。・・・豚と犬は死体を喰らい、それを生きている人が喰らう。人々は人を喰らい、肉屋で人肉を売る。幸運にも死ななかった于潤傑は『日が昇ると、死体の腹部が膨れ上がり破裂する。昼となく夜となく、その音が耳底を撃った』と、同じ宋占林は『死骸を埋めた土地は肥えているが、1本の草も生えない』と当時を語る」

 10月21日、国民党軍投降。かろうじて生き残ったのは市民17万人。共産党軍に封殺され扼殺された長春は白骨で充ちていた。「1948年11月3日、中共中央は『熱烈に慶祝する・・・敵の全守備兵を殲滅・・・引き続き努力せんことを・・・』との祝賀電報を打電。中共の歴史は長春戦、兵火放たず、と記録する」。著者は「長春と広島、死者の数はほぼ同じ。広島は9秒、長春は5ヶ月」と書き留めることを忘れない。

 「平民肉体 攻城利器」と題された1948年の長春での攻防を綴った劈頭の一章から、「父食子」「鼠人」「反対毛:槍殺腌生殖器官活体取腎」「人間蒸発」「屍体上的舞踏」「民主的葬礼」「中華汚染共和国」「肉体滅絶」「嬰児的“肥料”」「地獄変」「中国製造・・・“娯楽死”“噩夢死”“発狂死”“摔跤死”“呼吸死”“開水死”“洗臉死”」など、2010年3月から4月の39日間に福建、広西、広東、江蘇、山東の各地で連続的に発生した園児・児童の大量殺人を記した「一個人的恐怖帝国」まで、現場写真を添え、数え切れない死が綴られている。

 どの事例も想像を絶するが、特に「北京という聖地こそ、我が亡魂の地」の章には慄然とさせられる。01年6月、21歳の1人息子が突然死ぬ。鑑定は服毒自殺だが、消化器官内から毒は検出されず。父親の再捜査の訴えは却下。そこで父親は「致し方なく息子の頭部を切り取って証拠とし、北京に向かい党中央に訴えでようとする」。肉も皮もはりついた息子の頭部を抱きカメラに向け訴える父親の姿は悲しくも哀れだ。父親をそこまで駆り立てる怒りの強さと悲しみの深さは計り知れない。

 かつて小説家・聞一多は「暗い夜には天安門を歩かないことだ。・・・北京は街中が幽鬼に満ちている」(『天安門』)と。そして、いま、新しい北京に新しい鬼が溢れだす。  《QED》