【知道中国 464回】       一〇・十・仲四

     ――バカも休み休み・・・お願い致しマス

     『日語会話』(周浩如編 商務印書館 1963年)

 かつて中国は誰もが気軽に観光旅行に出かけられるような国ではなかった。共産党政権の政治基準にメデタクも合格し有難くもゴ招待を受けた“日中友好人士”だけが先ず香港に向かった後、中華人民共和国との数少ない接点の1つであった羅湖で橋を渡り深圳に入ることで、はじめて足を踏み入れることを許されたのだ。彼らの多くが香港での宿泊を指定された九龍の繁華街の外れにあった富士酒店(ホテル)には、チッポケながら当時の香港では珍しかった日本料理レストランが備えられていた。これから訪中する者には今日で日本料理は食い納め。

 大陸滞在中は中国料理で我慢すること。香港に戻ってきた者にとっては久々の日本料理で胃袋のリフレッシュ――といったところか。この本は、そんな時代の中国旅行を題材に、「日本語の口頭通訳工作者と学習者に日本語会話の規範を示し、同時に一般の日本語学習者と教授者の参考に供する」ことを目的に出版された。

 いま、この本が出版された63年前後数年を振り返ってみると、58年に毛沢東は当時世界第2位の経済大国であった英国を15年で追い抜くとの大風呂敷を広げたが、大躍進という名の誇大妄想は直ちに挫折。これに「3年連続の自然災害」が加わって、わずか2,3年の間に4000万前後の餓死者をだしている。毛沢東に代わって国家主席を引き継いだ劉少奇が鄧小平と共に毛沢東が掲げた急進的な社会主義化路線を緩和することで、62年には国家的危機を脱することに成功する。その結果、劉少奇が毛沢東に代わって国民的支持を集めることなり毛沢東の“嫉妬”を招き、やがて文革発動へと繋がった――この本は、劉少奇の国民的影響力が毛沢東のそれを上回る勢いを持ち始めた時期に出版されたことになる。  

 会話本らしく、「(1)深圳の橋の袂で」の「失礼ですが、日本××代表団の皆さんでしようか?」との出迎えから始まり、入国のための諸手続き、北京までの汽車旅行、北京の散策、万里の長城や武漢長江大橋などの見学を経て北京で香港行きの列車に乗り込む場面を繋ぎながら、会話を進めてゆく。なにはともあれ当時を象徴するような会話を、

 「(至る所で)スローガンを拝見して、こうしてお話をうかがつていますと、なんですか新しい社会に来たのだという感じで、身が引締まるようですわ。“共産主義は楽園だ”――希望に満ちた、とても明るい感じですわ!・・・忘れないうちにノートしていかないと」と口にしたのは「婦人外賓」だ。オ気楽千万ノー天気で、アホの一点突破全面展開である。

 男の「外賓」は列車の中で第三世界からの訪問客を眼にし、「アジア・アフリカの方たちのようですね。こんど北京に参りましてから、人民中国の成立が、民族独立のために闘つている、特にアジア・アフリカの各国人民にとつて、どのように大きな意味を持つているかということを痛切に感じさせられました」。負けじと、歯の浮いたようなヨイショだ。

 極め付きは天安門広場での会話だろう。「日本の方達の新安保条約反対を支持する百万人を越えた集会もここで催されたのです」と「通訳」が。これに応じて「婦人外賓」が「ええ、聞きました。中国の皆さんの力強い声援で、私達どれだけ勇気づけられたか知れませんわ。王さん、天安門は、もう新中国の象徴なばかりでなく、今では私達日本人の、いえ、平和を愛する世界中の人々の心の中のシンボルになっていますよ」だってサ。

空ろな熱気のみが虚しく空回りしていた時代であった・・・嗚呼、往時茫々たり。  《QED》