【知道中国 466回】       一〇・十・仲七

     ――今にして思えば・・・死語累々

     『漢語成語小詞典』(北京大学中文系195年語言班編 商務印書館 1959年)

 この詞典の冒頭に掲げられた「親愛なる祖国に捧げる」と題された「序」は、「本詞典は我ら17人の同級生の20日間に及ぶ労働における力戦敢闘の成果であり、我らが十・一国慶節への捧げ物であり、工農兵大衆に対するお礼である」で始まる。

 58年8月1日、2ヵ月後に迫った国慶節を前にして、北京大学共産党委員会は6週間以内で国慶節に捧げられるような成果をみせよとの号令を下した。「戦闘ラッパが吹き鳴らされるや、同級生は直ちに行動に移り、我ら17人の同級生は成語詞典を編集して供物にしようと決議した。それというのも、我国には目下のところ、この時代の精神を的確かつ平明平易に表現できるような成語詞典が見当たらないからである。・・・このような詞典こそを工農兵大衆は渇望している」。だが奈何せん時間的にも学問的にも限界がある。そこに有難くも党が登場し、「進むべき方向を指し示し、我らに力を与えてくれた。殊に全国で勇躍と展開されている大躍進の情勢を目にし、工農兵大衆の高い山をも額ずかせ、大河の流れすら押し返す勢いのような大革命の気高い気魄に接することで、我らは深く感動し、思想はより広がり、意気込みはより高まったのである。経験少ない我らではあっても、集団の力がある。集団の力に基づいて経験を引き出し、我らの詞典を編集しえた」そうだ。

 この詞典の編集が終ったと思われる58年初秋といえば、毛沢東が掲げた誇大妄想的政策である大躍進が華々しく全国展開されていた頃であり、出版された59年11月といえば大躍進政策の破綻が決定的となり、国を挙げて困窮と飢餓に苦しみ超耐乏生活を余儀なくされていた頃だ。そんな時代を反映してか、この詞典の装丁は極めて貧弱であり、使われているのはザラ紙。表面が粗くザラついているだけに、印刷された活字が読み取れない個所も少なくない。ともあれ、「この時代の精神を的確かつ平明平易に表」しているような典型的な成語のいくつかを拾いだし、解説部分を忠実に訳してみたい。

■大名鼎鼎=盛大な様を形容。[例文:資本主義国家において多くの大名鼎鼎(=影響力を持つよう)な人物は、実際はすべて残酷にも人民を掠奪する残忍悪辣な魔王である。]

■紅透専深=党が個々の党員、団員、革命知識分子に対する要求である。「紅」は政治的に労働者階級の立場に断固として立ち、確固とした共産主義世界観と人生観を持ち、マルクス・レーニン主義という思想武器を掌握し運用することを指す。「専」は自らが従事する仕事を深くい愛しみ、確固とした専門技術と科学知識を保持し、現実に起こる問題を解決し、本来業務を見事に担いうることを指す。「紅」を透して「専」は深まる。「紅」と「専」とが補完し合う。断固として「紅」であり「専」であらねばならない。

■興無滅資=プロレタリア独裁思想を確立し、ブルジョワ階級を消滅させることを形容。[例文:思想的に興無滅資であってこそ、徹底して自らの立場・観点を改造し、紅であり専である稔り豊かな大道での前進が可能となる]

■作法自斃=自業自得の意。[例文:帝国主義国家は経済封鎖を通じ社会主義国家の扼殺を企図して“禁運(=貿易禁止)”政策を採るが、結果的には作法自斃であり、却って彼ら自身が酷い目に遭うのだ。]

 タテマエのみが勇ましくも空回りしていた時代を「的確かつ平明平易に表」した成語だが、してみると現在、中国の大名鼎鼎な姿は紅透専深ならぬ銭透欲深の結果であり、それゆえに興資滅無の社会と化してしまい、いずれは作法自斃・・・ってことですか。  《QED》