【知道中国 473回】       一〇・十・三一    

      ――俺が中国人なら怒り心頭・・・かなあ

      『アリランの歌』(二ム・ウェールズ、キム・サン 岩波文庫1995年)

 著者の1人である二ム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノー。延安の洞窟に潜んでいた毛沢東と中国共産党を、一躍世界に知らしめた『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーの夫人だ。残る1人の著者のキム・サン(金山)の本名は張志楽(1905年~38年)。朝鮮人革命家である。

 彼女の延安入りは「1937年早くのこと」で、「延安には四ヵ月いた」。「着いて間もなく毛沢東と朱徳将軍の公式訪問を受け」ている。彼女は「『アメリカ人通信員の妻』として仲間に迎え入れてもらった」。「アメリカ人通信員」であるエドガー・スノーの「妻」であればこそ、延安の中国共産党員は「仲間」として彼女を歓迎したのである。それというのも、毛沢東は「エドガー・スノーに対しては九年間の情報の壁を破ったことを讃えただけでなく、個人的にもよく気が合った」からだそうだ。さほどまでに「九年間の情報の壁を破った」こと、つまり『中国の赤い星』の公刊は延安に逼塞していた毛沢東と中国共産党にとって得がたい好機となり、彼と党を生き返らせる効果があったということだろう。

 「あの雨降り続きの日々に延安で」彼女が出会ったのがキムだった。彼女が「魯迅図書館の英文書籍借出人名簿を繰」ると、「一人の借覧者が大きく他をしのいで、その夏何十冊という本や雑誌を借り出している」。その「一人の借覧者」であるキムが語った物語を再構成して、この本が生まれた。彼女は「一九三七年夏のはじめのこと」と書いているが、前後の情況から判断して、どうやら2人が語り合ったのは盧溝橋事件直後と思われる。

 朝鮮西北部の農家に生まれたキムは、兄の援助を得て平壌のキリスト教系中等学校に在学。朝鮮独立運動に参加。「一九一九年、朝鮮から逃げ出したあの秋の日、私は朝鮮を憎悪し、泣きごえが闘いのときの声に替わるまでは帰るまいと心に誓った」。以後、東京、満州、上海、北京など拠点を移しながら地下活動を続け、中国共産党に参加。彼女に自らの人生を語った頃は、延安の抗日軍政大学で物理・数学・日本語・朝鮮語などを教えていた。長年の地下活動と逮捕・獄中生活の無理がたたって重い肺結核を患ってもいた。

 彼女に向かって「人を許さぬ決然たる性格なので、政治上も敵も多い。清廉潔白であることに絶対的にこだわる・・・。(政治的に)ちょっとでも逸脱した人がいるとほとんど我慢できず」と自己分析する彼は、「中国では澄んだ川や運河を見たことがないのです。私たち朝鮮人は朝鮮の川で自殺するなら満足だというのですが、中国の川はきたなくて、そんな気になりません」と呟き、「自分たちがもうかるというのでなければ面倒を避けたがる中国人の性格を承知していた」と語り、「中国は無法律だ」と断じ、逮捕に来た官憲に対し無抵抗の中国人同志を前に「なぜあほうみたいにつっ立ってる? 卑怯者め! なぜ逃げないんだ?」「朝鮮人ならこんな時絶対にあきらめない」と怒声を挙げる。

 じつは彼を変わることなく援助した兄は、中国に向かう彼を「われわれ朝鮮人はすべて理想主義者であり、理想主義は歴史を創り出す。中国人はあまりにも拝金主義者であるためキリスト教民族とはなれず、やがてその物質主義のため亡びるであろう」と諭すのだ。

 盧溝橋事件の翌年、「中国のべリア」と呼ばれた康生が延安で起こした粛清の嵐の中で、彼は「トロツキー分子」「日本間諜」として処刑された模様だ。さもありなん・・・か。  《QED》