【知道中国 480回】        一〇・十一・仲四

      ――頑固一徹で一貫不惑

      『世界見世物づくし』(金子光晴 中公文庫 2008年)

 薄い橙色の表紙カバーには薄く上海、巴里、ジャワと地名が記され、そのうえに「旅に生きた 漂泊の詩人が描く それぞれの土地」と黒く太いゴチック体の活字――誰だって「旅に生きた 漂泊の詩人」で知られた著者が綴った旅情溢れる旅物語と思うはず。だが、あにはからんや、のっけから中国人に対する鋭い観察眼が働きだす。

 「海外を歩いているながい間に僕は、随分方々で排日の憂目にあった。支那内地は勿論、南洋でも、ロンドンでも、巴里や、アントワープ、アムステルダムまで排日にぶつかっているが、そもそも最初、一九一九年シンガポールで思掛けない排日態度に出られた時だけは忘れられな」い著者は、その時、次のような感想を持ったという。一世紀ほどが過ぎた2010年秋の反日騒動にも通じるものがある。

 「一体に支那人は群衆心理に支配され易い、興奮性な国民で、好条件な状態にある時はおかしいほどに元気になるが、失意となると一朝にしてペシャンコになって、それがみていると可笑しい位である。支那が古来宣伝の国などと云われているのは、政治の要諦がこの民族心理を支配する一事にあったためで誇大な宣伝、みえすいた虚報に為政者が腐心するのもあながち理由のないことではないのだ。華僑を、排日の興奮から醒めさせない為には、新しい戦捷ニュースによって絶えず民衆を刺激しつゞけなければならない」(昭和12年10月『文藝春秋』)らしいのだ。

 「失意となると一朝にペシャンコになる」とは、バブル崩壊以後の「失われた10年」やら「失われた20年」やらを嘆くだけの日本社会の姿を連想させないわけでもないが、中国では「誇大な宣伝、みえすいた虚報に為政者が腐心」し、「新しい戦捷ニュースによって絶えず民衆を刺激しつゞけなければならない」という金子の見方は、大いに頷ける。

 金子は昭和41年になると、屑やさんから「富商や、大政治家までひっくるめて共通に持っている支那人の性格の煙霧と、どこがゆきどまりかわからないうらのうら、魅力にさえみえた支那風の権謀術数が、このごろではつくづくいやになってきた。中共になってからも、僕は、イジの悪い目で、あの政治のオーバーな宣伝と、偽善的な正体をながめてきた。コムニズムがどうのこうのというのではなく、それが支那人の手にかかって、どんなおもいがけない、寒心すべき策謀の道具に使われることになるかとおもうと、そら恐ろしい」(昭和41年11月『話の特集』)とも綴っている。

 そして昭和43年。西暦で1968年だから日本の親中・媚中派を含む多くの学者・ジャーナリストからはじまって文化人と称する有象無象が「人類史上空前の魂の革命」とまで大礼賛した文革を前に、金子は「大きな肖像ポスターの前で悠然としていられる毛主席は、偉大な心臓の持ち主だとおもうが、七億の人間に朝から晩まで『ありがたや』を繰返させていねば安心できないことは、それだけ強制を必要とする政権が、いかに多くの人間性を犠牲にした精神的危機のうえにのっているかということを物語っているようにおもわれてならないのである。(中略)ともかくも、自分の大ポスターを平気で広場にかざらせておく大政治家を、私は好きになれない」(昭和43年12月『アジア』)とまで断言した。

 毛沢東、鄧小平、江沢民から胡錦濤を経て習近平と「大政治家」は途切れなく続きそうだが、「漂泊の詩人」の振るう一太刀は寸分の狂いもなく、確実に相手の肺腑を抉る。  《QED》