【知道中国 481回】        一〇・十一・仲六

      ――前言撤回・自由自在、厚顔無恥で変節有利(?)

     『論孔丘』(馮友蘭 人民出版社 1975年)

 天安門の楼上に立ち傲然と建国を宣言した日から2週間余が過ぎた1949年10月13日、毛沢東は「人々が進歩することを大いに歓迎します。いま、かつて犯した誤りを正そうと準備しているあなたのような人が実践できるなら、それは素晴らしいいことです。ゆっくりと時間をかけて改めればいいわけで、短兵急に救いを求める必要はありません。なにはともあれ、真面目な態度こそが望まれます」との書簡を、高名な哲学者に送っている。

 このように、毛沢東からの“おことば”を有難くも賜った学者が、この本の著者だ。彼は国民党時代の旧中国で犯した“前非”を深く深く、より深く悔い改め、社会主義の新中国で“真人間”に生まれ変わり、人民への奉仕に努めたいと毛沢東への恭順の意を示す書簡を、10月5日に送っていた。思想的投降宣言である。呆れるほどに手回しが早い。

 北京大学卒業後、コロンビア大学に留学。同大学で取得した哲学博士の称号を引っさげて1923年に帰国。以後、中州大学、広東大学、燕京大学、清華大学などで哲学を講じる一方、朱子学と陽明学を柱とする儒教哲学の再構築を試み、「新理学」と呼ばれる哲学体系を樹立し、40年代には中国哲学の旗手として知られた。

 ところが毛沢東が天下の政柄を握るや、それまでの学問と生き方を早々と自己批判して清算し、マルクス主義への路線転向だ。かくて“前歴”を問われることなく共産党政権成立後も北京大学哲学系教授に納まっている。57年になると、哲学的命題は時代を超えて抽象的に継承可能という「抽象継承法」なる屁理屈を口にするが、唯物史観に反する唯心論である批判されてしまう。すると、これまたトットと引っ込めてしまった。なんとも変わり身の素早いセンセイだが、この程度では終らない。二度あることは三度、いや四度でも五度でも、いやいや何度でもアリマス。その明々白々たる証拠が、この本だ。

 著者は「前言」で「1973年秋、広範な広がりを持った批林批孔運動が展開された。運動が始まった当初、私の心は極度に緊張し、マズイと思った。プロレタリア文化大革命以前、私は一貫して孔子を尊敬していたではないか。いまは批林批孔の時だ。ならば私は、またまた批判の対象となってしまう。その後、この考えは間違っていると思うようになった。それというのも、この考えはやはり文化大革命以前の私の旧い考えから出発したものだからだ。(中略)いまや、これまでなされてきた基盤に立って孔子批判を進め、過去の私の孔子尊敬思想を批判しなければならない。革命大衆と共に批林批孔を進めることを願うのだ」と、またまた自らの過去を“懺悔”し、勇躍と以下の孔子批判論陣を張ったのである。

 ――奴隷社会から封建社会への大変遷の時期に当たる春秋期に生きた孔子のアホーは、思想的にも行動の上からも復古路線を歩いた。ヤツが口にした「天下無道」の「道」とは旧い階級が大手を振って歩いていた「道」であり、ヤツが困惑の極みとする「天下大乱」の「乱」とは旧い階級を駆逐するために新しい階級が起こす正しい「乱」なのだ。ヤツは旧い階級、つまり没落してゆく奴隷主貴族階級の旗振り役を一心不乱に演じ、労働人民に敵対した。ヤツが掲げる「徳治」の「徳」は元来が欺瞞でありニセものだ――

 以上が毛沢東御用達の大哲学者による畢生の主張の概要だが、まさに強い者に靡き、時の流れに身を任せて生きる“学商”の面目躍如。彼らに信念を求めるのは、無理ムリ。  《QED》