【知道中国 498回】        一〇・十二・仲八 

     ――ほんの束の間ですが、長閑な時代もあったんです

     『従石頭到紙』(李懋学 少年児童出版社 1957年)

 「小さな友人諸君、キミたちは知るべきなんだよ。古代人はどのようにして字を書いたのか。どんなもので書いたのか。何処に書いたのか、を。するとキミたちは、きっとこういうだろう。『誰にそんな知恵があったの。気が遠くなるような昔のことなど、ボクたちに伝えることができるの?』って」

 こんな書き出しではじまるこの本の出版は、反右派闘争が始まって1ヶ月が過ぎた57年7月だ。4ヵ月後の57年11月には社会主義12カ国会議参加のためにモスクワに乗り込んだ毛沢東は中国人留学生を前に、「東風圧倒西風(東風が西風を圧倒する)」と傲然と語りかけた。いまや東側社会主義陣営が西側資本主義・帝国主義陣営を圧倒しているというのが一般的な解釈だが、翌58年の動きを振り返ると、この考えは変わるはず。58年5月には大躍進運動がはじまり、7月に北京を訪問したフルシチョフによる中ソ共同艦隊建設提案を毛沢東が拒否し、8月には人民公社建設と鉄鋼大増産の大号令が下され、人民解放軍が台湾の“解放”を狙って金門・馬祖島へ砲撃をはじめた。

 つまり、「東風」は毛沢東であり中国、「西風」はフルシチョフでありソ連・東欧社会主義陣営と看做すほうが、どうやら当時の毛沢東の意気軒昂たる心境を言い当てているのではなかろうか――この本は、そんな時代情況のなかで出版されたのだ。にもかかわらず、文革期には当たり前となった巻頭の『毛主席語録』からの一文もなければ、本文中にマルクス、レーニン、毛沢東の著作からの引用も一切ない。ということは、「小さな友人諸君」に政治向きの話題を提供し教育することなどなく、彼らを政治闘争に動員するほどまでに切羽詰った政治・社会情況ではなかったということか。毛沢東の向かうところ敵なし、だ。

 中国人の地質学者や考古学者が歴史以前の世界を“旅行”し、様々な地層の内部まで出かけて行ったり、人類の祖先の住まいを訪問し彼らの当時の生活ぶりを研究した結果、遠い遠い昔の原始人は岩山の洞窟に住んで狩猟や木の実などを採って生活していたことが判った。石を細工して武器など作って狩猟したが、絵も描いていた――こんな説明文の後に、「そんなことがあったの。原始人は絵を描けたの」と子供口調で素朴な疑問を示し、それに「そうなんだよ。文字のお母さんこそが絵なんだ。最初、原始人は字を書くことを知らなかったというわけさ。その頃は、字なんてなかったんだよ。だけど絵は描けたんだ」と優しく噛み砕いて答えている。

 「毛筆も鉛筆も、紙もなかったんでしょう。どうしたら絵が描けたの」

 「だからさあ、磨いた石や骨が彼らにとっての筆記用具だったんだ」

 「じゃあ、紙は」

 「彼らが住んだ洞窟の大きな石の壁さ。それから平らな石の表面や獣の骨・・・こういったものが彼らにとっての“図画用紙”だったんだな」

 かくして竹簡、木簡にはじまり、優秀な中華民族が世界で最初に紙を発明し、紙は用途を拡げたと説明し、「人々の知恵と労働が色んな種類の紙を生みだしたんだ。だから、ボクらは紙を無駄にすることなく、丁寧に扱おうね」と結んでいる。

 政治など「小さな友人諸君、キミたちは知るべき」ではないんだよ、である。時代は長閑、いや嵐の前の暫しの静けさだった。この本出版1年後に大悲劇の大躍進開始。  《QED》