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【知道中国 508回】 一一・一・初七
――国を挙げての「全民発瘋」は、あの時代だけではありません
『為毛主席而戰 文革重慶武闘實録』(何蜀 三聯(香港)書店 2010年)
1966年8月、毛沢東が文革を発動するや、北京に続けとばかりに重慶でも文革が始まる。だが、何が何だか五里霧中。そこで北京に倣って「資本主義の道を歩む実権派」「毛沢東の敵」を故意に仕立て打倒しようとするが、攻撃された側も組織固めして反撃の機を窺う。そこへ、如何様にも解釈可能な「毛主席の最高指示」が北京から飛び込んでくる。かくて攻防双方が互いに「我こそ真の毛沢東派」「お前らは反革命分子」と罵り合い、街頭での小競り合いがエスカレート。やがて重慶全体の大学、高校、中学、政府機関、国営企業、解放軍を巻き込んでの大規模な殺戮戦へと発展する。なんせ重慶は兵器生産の一大メッカ。武器にはこと欠かない。機関砲、榴弾砲、高射砲、戦車、軍艦までもが動員される始末だ。
この本は、ナゾ多き重慶での武闘の実態を客観的かつ克明に再構成した労作である。経済大国への道を驀進する中国に憧れる内外の有識者(トンマ)共に一読を強く薦めたい。
重慶での武闘における犠牲者(時には味方に惨殺された)の数は、今もって不明だ。いや重慶のみならず、中国全土でも犠牲者の正確な数を把握することは至難だろう。おそらく共産党独裁が続く限り、数字が明らかにされることはないはずだ。だが重慶の場合、相手側組織に捕虜として捉えられ「叛徒」「探子(スパイ)」の烙印を押された末に殺された人数は一応は明らかになっている。この本が引用している『重慶公安大事記(1949-1997)』によれば、66年8月からの1年ほどの間に重慶では22回に亘って大規模な武闘が展開され、結果として惨殺された捕虜は1737人。犯行に加わった者は878人。うち239人が後に逮捕され刑に服したというから、逮捕を免れた639人(=878-239)は口を拭って今もノホホンと、いやカネ儲けに生真面目に奮闘努力しているのかもしれない。小規模な武闘を加えれば、犠牲者の数はさらに増すに違いない。
著者は重慶といわず全国各地で展開され、残酷な結末を迎えざるをえなかった武闘について、「なぜ彼ら(高校・大学生、青年労働者、軍人)は、あのように残忍になったのか。発狂したのだろうか。彼らは凡て文革前の17年間の『毛沢東時代』に革命の伝統教育や階級闘争教育など「毛沢東思想」の教育によって成長した熱血青年なのだ。共産主義青年団員もいれば中共党員も復員軍人もいた。『最も革命的な時代』、『最も革命的なスローガン』の下で、彼らはナゼ、あのようなことをしでかしたのか。これこそを、人びとは深刻に受け止め、深く思いを致すべきことではなかろうか」と結ぶ。
著者の考えを言い換えるなら、彼らは突如として集団発狂したわけではない。17年という年月をかけて発狂するように教育された熱血青年であればこそ、勇躍として冷血漢にも、凶悪な殺人者にもなれた。凡ては「百戦百勝の毛主席と偉大な共産党」を守るという“大義”のため。だが、果たしてそうか。殊に最近の中国の海外への膨張ぶり、常軌を逸したとしか思えない沸騰経済を考えると、これまた「全民発瘋」としかいいようはない。
つまり、これからの世界は、文革に熱狂し、指導者の意のままに狂奔し、残酷極まりない武闘を潜り抜け、残虐な結末に心の痛みを感ずることなくゼニ儲けに狂奔し、海外への膨張を急ぐ人びとと彼らの後裔に加え、自国民を殺し合いの場に引きずり出し、その責任を毛沢東に押し付けたまま、何もなかったかのように自らは口を拭って知らん顔の共産党政権を相手にせざるをえないことを、常に肝に銘じておかなければならないのだ。 《QED》
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