【知道中国 511回】        一一・一・仲三
 
      ――自動列車制御装置が作動しないのです
     『全国鉄路 旅客快車時刻表』(人民鉄道出版社 1978年)

 これは、改革・開放政策決定に4ヶ月ほど先立つ1978年8月1日運行開始となった全国を走る快車(急行)列車の時刻表である。いまから考えれば長閑な時代の時刻表だが、丹念に眺めていると、無機質な時刻表の間から、当時の中国が浮かび上がってくるようだ。
最初に置かれているのが国際線4路線。①北京・ウランバートル・モスクワ、②北京・ハノイ、③北京・満洲里・モスクワ、④北京・平壌――を結んでいる。

 朝の8時5分に北京を発った列車は、時計の針が夜中の12時を廻った頃にモンゴルとの国境を越え、ウランバートル着は13時20分。1時間ほど小休止の後モスクワに向けて出発。イルクーツク着は翌朝の8時41分。ここまでで北京から2日間。クラシノヤルスクに着くのは翌朝の4時前。翌日深夜の0時18分にオムスクを離れた列車は一路西へ。モスクワ着は17時30分。全行程7865キロ。毎週、北京発が3便で、モスクワ発が4便。

 北京・ハノイ間は上下で週11便。北京発が毎週5便で、ハノイ発は6便。20時00分に北京を発てば、桂林の手前で日付が変わり、翌日の14時56分に最南端の憑祥着。国境を越えてヴェトナム領内へ。ハノイ着は21時00分で北京から2日間。全行程2966キロ。
 1週間単位の便数を見ると、北京・ウランバートル間が最多で179便(北京発89便、ウランバートル発90便)、次いで北京・平壌間で55便(北京発27便、平壌発28便)、北京・満洲里・モスクワ間は39便(北京発19便、モスクワ発20便)――ということは、当時、中国にとって最も近い外国はモンゴルだったということになる。

 国内の鉄道網を示した「全国鉄路示意図」を見ると、北は吉林西、東は東部シベリアと国境を接する綏芬河、南はヴェトナムとの国境の憑祥や雲南省最南端の河口、西はウルムチの先の烏西まで、取り敢えず全土が鉄道で結ばれていることになっているが、どこまで整備されていたのかは不明だ。ところで全国鉄路示意図には台湾の路線図も書き込まれているが、すべてが点線で結んである。「神聖不可分な領土」と大見得を切っているが、台湾の取り扱いに戸惑っている様子が現れていて、なんとも可笑しい。

 鉄道利用上の注意を見ると、旅客列車は①普通(硬座と軟座)、②簡易客車、③有蓋貨車転用客車の3種類に分かれている。硬座は主に板製の椅子で、軟座はクッションあり。簡易客車がどんなものか不明だが、有蓋貨車代用客車というのが当時の物資不足情況を物語っていて興味深い。乗車券を紛失した場合には改めて購入のこと。乗車中に紛失した場合は臨時切符の発行を受け料金を支払う。元の乗車券が見つかった場合は、双方の切符を提示し、過払い分の返還を受けること、とある。乗車券を購入した際は、その場で内容を確認し、誤記などを見つけたら直ちに窓口に申し出ること、ともある。

 鶏、鴨、鵞鳥、犬、ブタ、猿、猫など車内を汚染する家禽の持込を強く禁止しているが、当時の乗客の多くが、これら家禽を車内に持ち歩んで旅行していたということだろう。

 いまや全国を時速200~250キロの高速鉄路(Express Rail Link)で結び、いずれ時速500キロのリニア・モーターをも導入しようという勢いの中国からすれば、実にお粗末な時代だった。それにしても有蓋貨車代用客車の時代から30数年で一気に我がJR新幹線パクリ・ネットワーク。安全性は・・・天知る地知るも、我知らず。イケイケドンドンだ。  《QED》