【知道中国 512回】        一一・一・仲五
  
     ――それって、単なる屁理屈ってもんじゃないですか
     『哲学闘争与階級闘争』(中央党校革命大批判写作組 人民出版社 1971年)

 49年の建国からこの本が出版されるまでの22年余の間に起きた①経済的な基礎と上部構造に関する闘争。②思惟と存在の間に同一性が存在するか否かに関する闘争。③「一が分かれて二となる」と「二を合わせて一とする」に関する闘争――について、文革時において最も権威と影響力とを持った活字メディアである「人民日報」「光明日報」「紅旗」などに掲載された論文を収録している。

 さすがに毛沢東が「共産党の哲学とは、つまり闘争哲学」とするだけに、哲学論争は哲学闘争と位置づけられ、強引にも階級闘争と看做されてしまう。ここにも学術論争が政治闘争を引き起こす中国支配階級の伝統が生きているから、なんとも不思議なことだ。かくて「この3回の大闘争は凡て2つの階級、2本の道、2つの路線闘争のカギとなる時期に起こっており、叛徒、内なる敵、労働匪賊である劉少奇が背後で糸を引き演出し、叛徒の楊献珍が跳ね返って飛び出し逐一挑発してくるのだ。これは片や弁証法的唯物論と歴史唯物論、片や唯心論と形而上学の間の激越な闘争であり、国際・国内における哲学戦線上の尖鋭な階級闘争の反映である」となるが、意味するところは莫明其妙(チンプンカンプン)。

 そこで、この本で「東奔西走し、到るところで反動哲学をばら撒き、さらには狂ったように毛主席の輝かしき哲学思想に反対している」「1匹の犬」と罵倒されている楊献珍(1896~1992)の人生を概観し、哲学闘争と階級闘争のなんたるかを考えてみたい。

 楊は若くしてモスクワの東方大学に学び、建国後はマルクス・レーニン学院院長、中共中央直属高級党学校校長などを歴任したというから、これはもうチャキチャキのマルキストであり50から60年代の中国を代表するマルクス主義哲学の大権威だ。

 この本では、①52年に「悪臭プンプンの『総合経済基礎論』をでっち上げ、社会主義経済と資本主経済の『二を合わせて一とする』ことを宣揚した」。②58年には「下心をもって大胆にも『矛盾の同一性を利用する』と称し、我が党を『対立面の闘争を説くのみで、対立面の統一を語ろうとしない』と当てこすり攻撃した」。③「劉少奇のための『階級闘争消滅論』に哲学的根拠を与える一方、毛主席の偉大な著作で有る『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』に直接対抗しようとした」――と罪状を挙げ、楊を告発する。

 確かに毛沢東は「物事は凡て一が分かれて二となったもの」「つまり物事の矛盾法則とは対立統一の法則であり、唯物弁証法における最も根本的な法則なのだ」(『矛盾論』)と唱えているが、ハッキリいって、いやハッキリいわかなくても、何を主張したいのか判らない。だが、この本では毛沢東の「『一が分かれて二となる』という耀ける思想は人民大衆の間に広く深く浸透・伝播し、国内外の階級の敵は極端に敵視しつつ恐怖に陥った」と大いに持ち上げているが、それはないだろう、と突っ込みを入れたくもなる。

 文革で楊が糾弾された最大の要因は、要するに毛沢東の考えを「主観能動性を強調するもの」と批判したこと。つまり毛沢東の主張は「人民よ、やる気になればなんでもできる」でしかなく、マルクス主義とは無関係な「主観能動性」と揶瑜したわけだから、本音を衝かれた毛沢東は周章狼狽の末に、「極端に敵視しつつ恐怖に陥った」に違いない。「王様の耳はロバの耳」といってしまったことが楊の躓きの石だった、というわけデス。  《QED》