~川柳~ 
《随我便 公不公道 我決定》⇒《世界中 正義・不正義 オレ仕切る》

  【知道中国 524回】       一一・二・初八

      ――「民主自由の神気」を心から語れる時を求めて・・・

     『青春・逐夢・台灣國』(張・曽・沈 財団法人呉三連台灣史料基金会 2010年)

 『青春・逐夢・台灣國 -発芽』『青春・逐夢・台灣國 -掖種』の2冊で構成されたこの本のなかで、荘秋雄、陳唐山、陳都、祝丕芳(陳都夫人)、許富淵、陳以徳、盧主義、楊東傑、周■明、羅福全(なお■は火+式)の10人が、留学先のアメリカで国民党の様々な圧力に屈することなく、台湾独立を目指し奮闘を続けた自らの壮絶な人生を振り返る。前の5人が台湾独立の魁となり(『発芽』編)、残る5人が台湾独立運動の拡大に尽くした(『掖種』)という位置づけだ。出版元の呉三連台灣史料基金会は、「台湾に関する資料を蒐集・整理し、台湾文化を推奨・振興することと使命」としている。

 彼ら10人は表現こそ異なるが、台湾独立運動の精神的支柱は日本統治下の1920年代に自治・自決・独立を掲げて展開された「反抗日本殖民統治的運動」にあり、先輩たちの奮闘の足跡は以後の「台湾俊英による国民党独裁統治への反抗の精神的手本となった」と胸を張る。台湾独立への鋼のように勁い素志こそを、日本・台湾・中国・アメリカの狭間に漂い、移ろい易い国際関係の枠組みとは別に、日本人として深く心に留めておかなければならないだろう。彼らの迸る冷めた熱情は、国際関係の政治力学における小賢しい利害得失を超える。もはや損得でも、好き嫌いでもない。独立こそ、彼らが人間として生きるための絶対条件であり、独立運動に挺身することは人生を生き抜くことと同義となった。

 1945年に台湾を接収し、どさくさ紛れに自らの版図に組み込んだ大陸の国民党政権は、台湾人を劣等民族・二等国民と蔑んだ。かくて中国の歴史・文化の学習を強要し「大中国意識」を強制的に植え付け、台湾文化は中国文化に遥かに劣るという意識を持たせ、「本省人<外省人」という図式を捏造し、台湾人に自らの国家建国という雄々しき心根を失わせたのである。「大中国思想」が台湾人の心を徐々に蝕んだ結果、台湾人は去勢され、自らが国家の主であり自らの国家を建設できるとは信じられなくなってしまっていたと慨嘆する。

 このように日常の立ち居振る舞いだけでなく、ことばを奪われ(台湾語禁止、中国語強制)、心まで雁字搦めに縛りつけられてしまったことこそが、独立建国への最大の障害となった。ということは、国民党治下の台湾では台湾人は台湾人意識を持つ方途すらなく、エセ中国人・劣等国民としての地位に留まるしかなかった。かくして国民党の硬軟巧みに織り交ぜた台湾人改造策を脱し、台湾人意識を蘇生させ、台湾人の独立への鋼鉄の意志を持つためには、国民党治下の台湾を離れるしかなかった。だから日本へ、そしてアメリカへ。

 50年代、アメリカに留学し「自由民主」を知った学生は改めて台湾の惨状に思いを致す。留学生仲間で激論を重ねた末に、「台湾は独立してこそ、国民党の統治を脱することが可能となる」との結論をえた。かくて56年、アメリカ独立宣言が行われたフィラデルフィアで地下組織の3F(Formosan’s Free Formosa)結成にこぎつけた。彼らの動きを察知した国民党は異国にあっても様々な手段を弄し運動破壊を進めるが、58年に台湾独立聯盟(UFI)、66年には全美台湾独立聯盟(UFAI)を組織する。

 「中華民国体制と中華民族論に真正面から立ち向かい、国民党統治を脱し外来の統治者を再び受け付けることなく、台湾国の建国を願わんとする主張は、自からが覚醒してこその勇気ある選択だった」――日台関係の過去・現在・将来を考える時、心に重く響く。《QED》