~川柳~ 
《人民幣 発音好似 人民皮》⇒《人民の 生血をインクに 人民元》

  【知道中国 528回】        一一・二・仲六

     ――身勝手な政治が庶民に強いた哀しき“大長征”

     『国家特別行動:新安江大移民』(童禅福 人民文学出版社 2009年)

 「遅到五十年的報告(50年遅れの報告)」という副題が語っているように、権力者の気まぐれに翻弄され続けた人々の半世紀に及んだ苦難・忍従の歩みを綴った報告書である。

 1954年3月、自ら「第二の故郷」と名づける浙江省杭州で共和国憲法草案を書きあげた毛沢東は、疲れを癒すべく、省委員会書記の譚啓龍を引き連れ紹興東湖に遊んだ。この時、「年過六旬」、つまり還暦を過ぎたところ。満々と水を湛えていた紹興東湖は湖畔の春模様を映し、水面は光り耀いていたことだろう。湖畔を散策する毛沢東の心は昂ぶっていたに違いない。だが、これが新安江周辺住民の半世紀にも及ぶ苦闘のはじまりだったとは、彼らは知る由もなかった。あの時、毛沢東が紹興東湖畔に立ち寄ってさえいなければ・・・。

 湖畔の休憩所で水面に目をやり、お茶を味わいながら隣に侍らせた譚啓龍から地方事情などを“奏上”させていた毛沢東は、やおら机を叩いて立ち上がって叫ぶ。「こう考えればいい。新安江に大型水力発電所を建設すべきだ。だが、浙江だけを考えてはダメだ。上海、江蘇、安徽を手助けしないと、な。新安江に何十万キロワットかの発電所が完成したら、毎年、莫大な電力が杭州、上海、南京などの工業を大いに盛んにすることになる」

 中国に最初に誕生した共産党王朝の初代皇帝の勅旨に、側近として伺候していた譚震林が「御意」と。朝鮮戦争などもあり戦略物資窮迫情況ではあったが、“筆頭執事”の周恩来がセメントを中心に建設資材調達に奔走。56年8月、いよいよダム建設がはじまった。59年4月、建設現場を訪れた周恩来は「我が国最初の自ら設計し自ら建設する大型水力発電所の建設勝利のために勝鬨を挙げよう」と揮毫し、現場を励ましている。

 だが、問題なのはダム湖に水没する新安江沿い淳安に住む30万の住民のその後だ。58、59年と「非生産的で無秩序」な大移動がはじまる。彼らは「国家に捨てられたチュポケな家族」でしかなった。当時、ダム建設の実質的指揮を執った浙江省党第一書記は、「淳安の人々にお詫びしなければならない。新安江ダムで移動を余儀なくされた人々にかかわる解決しなければ問題は余りにも多い。あらゆる責任は私にある」と語り、詫びながらあの世に旅立っていったという。旅立つ方はそれでいいだろう。だが、残され、流浪の旅を強いられた住民たちはタマッタものではない。

 この段階で政治が機能しブレーキがかかればよかったわけだが、なんせ古来、皇帝の“綸言は汗の如し”。客観的に不可能だと判断されても、皇帝のことばは口から発せられたら最後、どんなことが起きようとも取り消しはできない。プロレタリア独裁政権における偉大な領袖なら、なおさらのこと。楯突くことなど、金輪際不可能だ。そこで泣くのは人民ということになるのは必定。これは“中華数千年の歴史”が物語る絶対の鉄則だ。

 移動先は風土病の蔓延する荒地。死以上の苦しみを強いられ、やがて残った10万人は江西に落ち着くが、苦しい生活に変わりはない。生得悲惨、死得暗澹(生きるも死ぬも地獄)。
 94年、江澤民政権が動く。当時の朱鎔基首相は「我が歴代政権は新安江ダムが残した問題をなにも解決していない。どうすれば、彼らに顔向けができるだろうか」。とはいうものの、問題の根本解決には程遠いのが現状だ。

 毛沢東の思いつきのままに進められ、無様な結末を迎えた国家プロジェクトは少なくないはず。新安江流域住民の忍従・苦闘は氷山の一角だろう。生得悲惨、死得暗澹。《QED》