樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《没有用 馬克列寧 同一様》⇒《役立たず マルクス・レーニン 同じこと》

  【知道中国 534回】             一一・三・初一

     ――共産党独裁権力×「悪魔の碾き臼」=貧乏人に明日はない

     『仇富 当下中国的貧富之争』(薛涌 江蘇文芸出版社 2009年)

 かつて毛沢東は共産党政権を打ち立てる過程で、農民にとっての最大の敵は地主だと訴え、農民に地主への復仇意識を持たせることに腐心した。本来が農民のものである土地を地主から取り返すことこそが革命なんだ、と。まさに富める地主に対する「仇富」である。そして今、日本に取って代わって世界第2位になった経済大国で、「中国公衆意見領袖(民衆のオピニオンリーダー)」の看板を掲げる著者は「仇富」を強く訴える。だが現在の「富」はかつての地主ではなく、社会主義市場経済におけるアブク銭の稼ぎ手であり、彼らの跳梁跋扈を許すことで懐を肥やす政治権力であり、社会システムということになる。

 改革・開放が本格始動をはじめた80年代、中国にも「国家の権力を制限し、政府は社会経済の領域から徐々に退出し、より多くの権利を人民に与え、より多くの自由を社会にもたらすべし」との主張が登場することとなった。政府の規制を可能な限り廃し、市場のメカニズムに任せることで、経済効率は向上し、経済と社会に活力が促される。かくて最小不幸社会ならぬ最大幸福社会が生まれるという「新自由主義」思想だ。その急先鋒が、中国版の竹中平蔵ともいえる呉敬璉、江平、茅于軾だった。

 確かに経済規模は目も眩むような勢いで拡大した。だが、と著者は中国版の竹中に逼る。
経済成長と表裏一体に進むはずの政治改革は滞ったままであり、そのうえ政府は一向に市場から退出しない。特に地方政府が権力を切り売りすることを商売にしていることから、党幹部=役人と企業家が手を結んだ「官商一体化(「トノ様」と「越後屋」のズブズブの癒着関係だ)」が極端なまでに進んでしまった。その結果、泣くことになったのは一般人民だ。

 経済生活は自由経済であり、市場経済が本来的に持つ調整機能では処理できない問題が発生した時のみ、“目に見える手”としての国家権力が必要最小限の関与をすればいいと、市場における問題解決の担い手として国家権力を擁護する。だが、個々の事案が発生した場合に登場する国家権力とは地方政府権力であり、じつは地方政府は裁判所、警察、行政などが癒着・一体化したものであり、それゆえに個人の生活に際限なく介入してくる。

 格差問題についても市場に任せ、大きくしたパイをみんなで切り分ければ解決すという。だが、中国のような極端な格差社会ではパイを大きくすることは不可能だ。強欲な地方政府権力と飽くことなく利潤を追い求める企業家の結託を阻止・掣肘する政治的・社会的・道徳的システムが機能しない惨状である。最低賃金制度など厳格に守られるわけがない。

 かくて著者は、資産の多寡が政治的利益を左右する未成熟社会を改めるため、「仇富の道徳」を内包した「仇富の心理」が必要だと力説する。だが道徳や心理を掲げるだけでは、現代中国の「トノ様」と「越後屋」の“協働関係”はビクともしない。貧乏人の怒りを糾合させ、「仇富」を具体的に行動に結び付けられないところに、病根があるはずだ。

 経済人類学創始者のカール・ポランニーは主著の『大転換』で資本主義を「個人を孤立化させ、社会を分断させる悪魔の碾き臼」と糾弾したが、個人を強制的・熱狂的に集団化させ、社会を一元化させる共産党権力もまた「悪魔の碾き臼」に違いない。そこで著者の主張に沿うなら、社会主義市場経済に生きる中国人民は2つの過酷な「悪魔の碾き臼」で粉々にされている――著者が糾弾する世界第2位の経済大国の実態が、これだ。《QED》