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樋泉克夫教授コラム
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~川柳~ 《楊白労 一窮二白 没有変》⇒《策弄し 「ジャスミン革命」 封じ込め》
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【知道中国 536回】 一一・三・初四
――敵を欺かんとすれば、先ず自らを欺け
『為人民献身最光栄』(人民出版社 1971年) 1971年7月4日の「人民日報」は「偉大なる領袖毛主席と彼の親密なる戦友である林副主席が中央軍事委員会に対し、盛習友同志に『愛民模範』の光栄ある称号を授与することを自ら親しく命じた」と大々的に報じ、同日の「解放軍報」は「党と人民の利益は何事にも勝る」という表題の「《解放軍報》評論員」の論文を掲載している。当時、共産党を代表するメディアといえば「人民日報」「解放軍報」の2紙に論文誌「紅旗」。この本は、これらメディアが報じた「盛習友同志」に関する論文や彼の日記の抜粋を集めたもの。ということは、この本が示す主張が当時の共産党の公式見解と看做して間違いないだろう。
この本では貧困家庭に生まれながら“光栄ある人民解放軍”に入隊し、「毛主席と林副主席の尊い教え」を一心不乱に学び、刻苦勉励・不惜身命の日々を送った盛習友の生前の姿を回顧し、短くも光栄に満ちた人生を顕彰することで、人民に「愛民模範」の姿を学習させようというのだ。軍務の途中、激流に呑み込まれようとした9人の女性農民を、自らの命を顧みることなく救ったらしいが、残された彼の日記の「全身全霊で毛主席を思い、心の底から毛主席のために働き、全身を賭けて毛主席に従い、全人生を毛主席守護のために捧げる」などという件を読まされると、これはもう狂信的カルトというしかない。
実際、この本がどれほどの教育効果を挙げたのか疑問にならないでもないが、有態にいって、そんなことはどうでもいいことだ。ここで興味を誘われるのが、この本出版前後の毛沢東と「親密なる戦友」の林彪の関係だろう。
毛沢東が「勝利の大会」と内外に向かって誇示した69年4月の第9回共産党大会において、林彪は党規約に「毛沢東同志の親密なる戦友」と書き込まれ、名実共に毛沢東の後継者としての地位を確保したはずだった。だが、70年に入るや2人の間に波風が立ちはじめる。毛沢東が国家主席廃止の方針を打ち出すや、林彪は毛の国家主席兼務を主張すると共に、「世界でも数百年に1人、中国では数千年に1人しか生まれない天才だ」との持論を持ち出し、毛沢東天才論を口にするだけでなく、挙句の果てには毛沢東天才論を否定する勢力こそ打倒すべきだ、とまでいいだす始末。これには、流石の毛沢東も首を傾げたようだ。
70年8月になると、北京の権力中枢は毛沢東天才論と国家主席廃止をめぐって毛沢東派と林彪派に2分され、抜き差しならない対立情況に陥った。先ず毛沢東が先制攻撃を仕掛ける。71年1月に首都を守る北京軍区から林彪系部隊を移動させ、毛沢東支持派の部隊に入れ替えた。ここで「劉少奇の轍は踏みたくない」とばかりに林彪が反撃に移る。70年10月、林彪の息子の林立果が空軍内に連合艦隊を名づけられた親衛部隊を組織し、71年3月には毛沢東暗殺計画の策定し実行に移そうとしたが失敗。かくて9月、林彪はソ連への逃亡を企てたがモンゴル領内に墜落死した(正確には「ことになっている」とすべきだろう)。
毛沢東との対立から死まで。林彪の動きは不明な点が多すぎる。権力をめぐる“宮廷対立”は古今東西を通じて些細な事から暴発しがち。毛と林の対立も疑心暗鬼が妄想を増幅させて起こった悲喜劇だろうが、問題は両者の対立が先鋭化した渦中でも「偉大なる領袖毛主席と彼の親密なる戦友である林副主席が・・・自ら親しく命じた」と糊塗しなければならなかったことだ。林彪事件の“真相”の公式発表は、72年の後半だったように記憶するが・・・やはり共産党政権の公式見解は眉にツバを付けて聞かないと、コケます。《QED》
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