樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《在外国 不要回国 爹娘説》⇒《海外で 贅沢三昧 し放題》

  【知道中国 541回】            一一・三・仲四
    
      ――これが文革と改革・開放の2つの時代を生きる智慧だ

      『以血涙写的歴史』(汪国軍 南嶺書屋 1997年)

 「共産党員として極く真面目に働いてきた父は、やがて劉少奇の手下と断罪され、粛清の肉挽き器の中に消えていった」と振り返りつつ、著者は「若者を焚き付け暴力の祝祭に狂喜乱舞させた文革が遂には数千万人に死をもたらすことになるとは、誰も気づかなかった」とも述懐し、文革は「社会と歴史の発展を強制することが可能だとする狂った教義」がもたらしたものだと結論づけた。そして紅衛兵であった自らを自嘲気味に思い起こしながら、文革と共産党政治の意味を考える。

 ――文革は毛沢東の気紛れでも劉少奇に対する嫉妬でもなく、ましてや当時盛んに喧伝された人類史上空前の魂の革命でもなく、階級闘争の道具、さらには権力闘争を浄化する力としての暴力を巧みに理想化した毛沢東の「革命ロマンチシズム」の当然の帰結だ。

 若者は非日常的暴力に躍った、いや躍らされ、熱狂の坩堝に自ら飛び込んだのだ。今から考えれば、紅衛兵になるように仕向けられたのかもしれない。生活に裏打ちされていないゆえに、オレたちの絶叫は過激で非現実的なスローガンとなっていった。だが、過激になればなるほど、生活に裏打ちされていないことばは重みをうしなっていくことに気づいた。だが、一度口から放たれたことばを呑みこむことは到底不可能なのだ。過激なことばの持つ無意味さ、虚しさを知れば知るほど、そこから抜け出るには過激にならざるをえなかった。かくて過激さは空回りする。その虚しさに気づき、自己の尊厳に思いを致し、それを守ろうとした仲間は潰され、投げ捨てられ、粛清の肉挽き器に投げ込まれたのだ。

 とどのつまり文革の疾風怒濤は、若者が個人として成長することや、政治とか社会に対する疑問・質問を抱くことを、断固として許そうとはしなかった。表面的には過激に振舞った、いや振舞うように仕向けられたわけだが、最終的にオレたち世代は政治や社会に無関心になるよう教育されていたのだ。オレたちは国家とはなんであり、国家がどのように動かされるのかコレポッチも知らなかったし、知らされなることはなかった。逆説的だが、知らなかったからこそ、過激に振る舞えたということだろう。

 オレたち世代は、劉少奇が導こうとした体制が資本主義への道を切り開くものだなんて思ったことはない。だから毛沢東の主張を素直に全面的に信じていたわけではない。劉少奇の目指す方向が、やはり我われになにもしてくれないことは漠然とだが気づいていたからこそ、劉少奇路線を敵と見据え反対した。毛沢東体制であれ、我われになにもしてくれないことは同じであればこそ、劉少奇の次の標的として密かに毛沢東を見据えていたのだ。

 反右派闘争から大躍進を経て文革への政治を生み出したシステムは、人民が己の意思を表明するための道を封じ込め、その凡てを破壊し尽くしてしまった。知識人から筆が、画家からキャンバスが、芸人から舞台が、記者から新聞が、学生から学び舎が、いつしか知らないうちに奪われ、唯一残ったのは党の巨大な権力のヒエラルキー体制でしかなかった。この体制の底辺は気が遠くなるほどに深く広く、頂点は限りなく高く、そこに到る道は限りなく狭まってゆく。この階段を上に向かう唯一有効な手段は、画一主義と日和見でしかない。だから、たとえ自分を騙してでも、そこに賭けるしかなかった――

 そこで著者は粛清の肉挽き器を前に画一主義と日和見に生きる道を求めた、というのか。元紅衛兵の弁明は深刻な反面でアッケラカンとしている。生き残りの智慧だ。《QED》