樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《有財産 応有尽有 有地位》⇒《アブク銭 権力と地位 引き連れて》

  【知道中国 543回】            一一・三・仲八

     ――プロレタリア階級独裁の“正義の鉄拳”は凄惨で冷酷・無慈悲だ

     『反文革第一人及其同案犯』(劉文忠 澳門崇適文化 2008年)

 1967年3月23日、当時の上海を押さえていた四人組一派が「プロレタリア文化大革命断固死守、反革命徹底鎮圧」を掲げ、文革が始まって以来初の大規模な人民裁判を敢行した。雁字搦めに縛りあげられた「反革命犯」が、熱狂と怒号の中に引き出される。

 1957年の反右派闘争時、「狂気のままに共産党の指導と社会主義制度を攻撃し、歴代の政治運動と政策を汚し」、62年には「反革命集団の頭目として船舶を強奪し敵への投降を企て、プロレタリア文化大革命発動後は党中央のプロレタリア文化大革命に関する決定(十六条)に難癖をつけ、反革命の十六条をデッチ挙げ全国8大都市の14大学に郵送せんとし、限りなく薄汚く憎悪に満ちた調子で我が偉大なる領袖を呪い罵倒した。社会主義制度を戦争の引き金と攻撃し、プロレタリア文化大革命を人民にとっての大災害と罵しる一方でブルジョワ階級の『平和・民主・平等・博愛』を大いに宣揚し、ソ連修正主義とアメリカ帝国主義を徹底して鼓吹した」。かくて「悔い改めない極悪犯罪者、人民にとって敵であり骨の髄まで反革命分子である」彼は、「プロレタリア文化大革命の遅滞なき前進のため」に死刑判決を受け、即刻銃殺。もちろん、遺族は遺体に射込まれた銃弾の代金を請求されている。 

 当時の「上海市中級人民法院刑事判決書」に「劉犯文輝」と記されているのが著者の兄。当時30歳で独身。現在でも中国では判決に際し姓と名前の間に「犯」の一字を差し挟んでいるかどうかは知らないが、ここにも“被告の人権”などという大甘な考えなど歯牙にも掛けない中国社会の一面が見られる。かくも徹底して冷厳・冷酷・冷血になれるらしい。

 幼少の頃から著者が慕う兄は勉強熱心で正義感に溢れ、早くから「毛沢東の本質はマルクス・レーニン主義者ではなく、根っからの農民策謀家だ。骨の髄から我が国特有の封建帝王意識が染み付いている彼の振る舞い、作風、手段、謀略は、我が国の伝統的な封建文化思想に根ざしている」と、著者である弟に密かに漏らしていた。

 父親は台湾にも香港にも逃亡する道を拒否し、新たに成立した共産党政権を一家を挙げて支持・歓迎した。だが建国前後に中国支援のための国際援助機関に勤務したことが原因で、「敵に投降し、台湾・香港の国民党分子と結託し、狂ったように反革命陰謀活動を進めた」右派とされ、「人民に学ぶため」に毎朝、町内の道路掃除を義務付けられた。人々の悪罵と嘲笑と暴力に耐えながらのそれは、近隣からの絶えざるリンチでしかない。かくて父親は感情を失った動く植物人間に。兄も父親と同じ仕打ちを受けるが、反攻の機を待つ。

 やがて文革がはじまるや、兄は「党中央のプロレタリア文化大革命に関する決定(十六条)」を徹底批判した。たとえば毛沢東の「革命を掴み、生産を促す」という考えに対し、「西欧社会に向かって国を大きく開放し、外国の先進科学の知識と技術を導入し、現代化建設を進めなければダメだ」と訴えた。兄が秘密裏に書いた反毛論文を北京大学などの学生組織へ郵送すべく投函した著者は19歳で逮捕され、長く苦しい獄中生活を余儀なくされる。彼は兄を悼みつつ、「全国が解放されて17年後の文革の暴風のなかで数えきらないほどの人々が鬼(霊魂)にされてしまったことを、いったい誰が想像できるだろうか。地獄に国の境があるかどうかは知らない。だが地獄に中国という標識が立っていたなら、そこは失意のまま、あるいは恨みを残したまま死んだ怨霊に満ち溢れているはずだ」と呟く。

 中国共産党の冷徹無比で無理無体な政治を知る最良の教科書だと、断言しておく。《QED》