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樋泉克夫教授コラム
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~川柳~
《還無有 但是頗有 拍鋪的》⇒《あそこでも ここでも商い モノもらい》
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【知道中国 552回】 一一・四・初五
――私は党員・・・だが党は消え去るべきだ
『反右派闘争的冩眞』(雲松亭 南嶺書屋 1990年) 「冩眞」とは日本人の思い描く写真ではない。「眞」を「冩(しる)す」ことである。
朝鮮戦争も終わり国内建設への態勢を整え国家経営に満腔の自信を持ったと思われる毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」を掲げ、官僚風を吹かすなど硬直化しつつあった共産党政治への批判を全人民に求めた。この“誘い”に応じて民主派や知識人は一党独裁を強行する共産党を「政権を放棄すべし」とまで言い立てる。これに慌てた毛沢東は57年6月の「人民日報」に「這是為什麼(これはなぜだ)」と題する論文を掲げ、共産党を批判する民主派や知識人を「右派」「反革命」と断罪し、全国に「反右派闘争」の嵐を巻き起こす。
これを民主派・知識人を抹殺するための陰謀だと批判されると、「陰謀ではない、陽謀だ」と嘯いたというから、毛沢東も中国歴代権力者の正統な継承者だ。とてもじゃないが・・・。
57年半ば以降、反右派闘争に当たって、全国の職場や職域で予め示されたで右派や反革命分子の摘発が義務付けられたという。上から押し付けられた“数値目標”を達成させるために摘発され無理やり右派と認定された580万人に及ぶ知識人は、労働によって歪んだ精神・思想を正すという名目で58年には辺境に送られている。どれほどの知識人が、不慣れで過酷な労働と劣悪な生活環境に理不尽で悲惨極まりない死を強いられたことか。
著者は「一つの世代は知識と経験を次の世代に渡す義務がある。だが、このシステムが反右派闘争によって破壊された」と知識人抹殺に狂奔した毛沢東を論難し、糾弾する。 ――苛烈な反右派闘争、つまり強要されデッチ挙げられた右派・反革命という罪状の数々、いわば無辜の知識人の逮捕、拷問、意図された飢餓・・・次々に降りかかる無慈悲極まりない暴力や人としての尊厳を踏みにじる悪罵に恐れ慄いた知識人は、毛沢東に唯々諾々と従うことが自らの人生を維持する便法であることを知ってしまった。誰もが毛沢東によるいわれなき粛清の巨大な竈の中に相次いで放り込まれてゆく理不尽さに口を閉ざし、呆然と見守った。なぜなら、異を唱えたら、翌日には自分が巨大な竈に投げ込まれる運命にあることは、誰もが身に沁みて気づくようになっていたからだ。物言えば唇寒し・・・。
反右派闘争で生き残った知識人、たとえば郭沫若などは毛沢東に対する無原則極まりない無限の追従の見返りに、多くの“余得”を享受した。自著を大量に出版する身勝手さだけではなく、与えられた邸宅での清朝王族に勝るとも劣らない贅沢極まりない日常生活や外国からの賓客との宴会など。その様は、毛沢東に囲われた妓女そのものでしかなかった。
郭のような妓女との交友を通じ、日本など西側の“進歩派”を自認する多くの知識人が毛沢東を褒め称えた。かくて毛沢東は西側世界からの批判を気にすることなく身勝手な残虐行為に耽ることができた。それというのも、毛に対する批判には、郭を通じて手懐けた西側知識人が身を挺して防いでくれたからだ。だから、毛沢東を誉めそやした西側知識人の罪は決して軽くない。中国人として彼らを恨む。断固として許すことはできない。
毛沢東が仕掛けた反右派闘争で煮え湯を呑まされたゆえに、知識人は自分を騙し時の流れに身を任せ、国を挙げた毛沢東賛歌に積極的に唱和することが我が身を守る最良の方法だと思い知る。毛沢東の時代以後も沈黙は許されない。知識人の沈黙は不平不満の表白と看做されたからだ。反右派闘争が知識人に与えた深い傷は、今も癒されてはいない――
ならば中国でヌクヌクと生きている知識人は「権力の道化役者」・・・確かに。《QED》
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