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樋泉克夫教授コラム
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~川柳~
《我不信 中国世紀 快要来》⇒《中国の野望は世界の悪い夢》
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【知道中国 554回】 一一・四・初九
――特権・腐敗・強欲は革命家の宿痾、それとも業病か
『異境――私が生き抜いた中国』(韓瑞穂 新潮社 1999年) 著者は1922年に東京で生まれた生粋の日本人だ。彼女は43年に東京で中国人留学生である韓さんと結婚し中国国籍を取得して韓という姓に。やがて帰国する夫と共に北京へ。落ち着き先の夫の実家は豪邸。ところが、そこは共産党の秘密連絡所だった。となれば党員が日々出入りすることとなる。気がつけば彼女も、生真面目な活動家である夫に従って極く当たり前のように共産党支援にのめり込んでいた。
46年半ばから49年秋まで続いた国共内戦当時、彼女は軍医として八路軍と共に各地を転戦したそうだ。大躍進政策がはじまった58年には大学で日本語を教えることとなった。63年になると、文革の前奏曲といえる社会主義教育運動に参加して河北省北部の僻村に送り込まれ極貧生活を味わう。文革中以降はお定まりのコース――日本人であれば日本帝国主義のスパイであるはずとの容疑で投獄され屈辱と苦難を経験するが、文革終焉後は名誉回復――を経て医師に復帰。この本を執筆した当時は北京国際関係学院教授として日本文学を担当していた。厳格な審査を経て、彼女は共産党に入党している。
まさに「数奇な運命」としか形容しようのない人生を歩いてきた著者だが、自らの波乱万丈の生き様を自慢げに語るわけでも、彼女が「生き抜いた中国」への恨み言をぶちまけようとするわけでも、自らの立場を守るために歯の浮いたような共産党賛歌を唱いあげようというわけでも、ましてや安っぽい日中友好を語ろうとしたわけでもない。
この本で著者は波乱万丈で凄まじいまでの自らの人生を縦糸に、彼女が苦難多き日々を共にした数限りない中国庶民や残留日本人のありのままの姿を横糸にして、彼女が「生き抜いた中国」の実像を語ろうとする。いわば、この本は庶民が語り、庶民の日常生活の視線から描かれた中華人民共和国史ともいえるだろう。
「権力に従順で、それを疑ることのない人たち」が「解放の喜びに浸っている」時間は短かったと振り返る一方で、彼女は「長期の革命闘争と戦争で多くの犠牲を払ってきた老幹部ほど、その代価を受けるのは当然という風潮が強くなる」と、革命の老幹部に透けて見える中国革命の裏側を明らかしに、老幹部の姿勢に「異」を唱える。
建国から2年後の51年には、早くも党・政府・軍幹部の腐敗を糾弾するための激しい政治運動がはじまっている。以後、自由化を掲げた「百花斉放・百家争鳴運動」(56年)、「反右派闘争」(57年)、「社会主義教育運動」(63年)、「文化大革命」(66年~76年)と全土を巻き込んで激越な政治運動が起こっているが、それらの起爆剤となり原動力となったのは、やはり当たり前のように特権を享受する幹部に対する、民衆の喩えようのなく激しい怨嗟の念だった。だが一方で民衆は「新しい環境に適応するのは早い」。その変わり身の早さ、環境順応能力の高さに感嘆の声を挙げる著者は、「伝統なのか生活の知恵なのか。きっとその両方だろう」と呟く。この辺に、中国庶民と権力の関係を解くカギがあるようだ。
特権を享受する幹部。不満を募らせる民衆を強権で上から押さえつける一方で、彼らの不満を利用して政敵追い落としを目論む幹部。権力闘争に勝利し、特権に狎れる幹部。やがて再び民衆の不満は募る――建国以後は、この繰り返しだった。共産党独裁権力の悪癖は、やはり「私が行き抜いた中国」の骨の髄にまで・・・治癒不能で処置ナシ。《QED》
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