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樋泉克夫教授コラム
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~川柳~
《誰説的 白猫黒猫 先富論》⇒《開放が されてもやはり 貧乏人》
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【知道中国 559回】 一一・四・仲九
――スターリンは「勝者は批判されない」と語った・・・そうだ
『虹の彼方に消ゆ(上下)』(夏之炎 文藝春秋 1979年) 著者自ら「政治推理小説」とするこの本の副題は「小説・林彪事件」。文革発生当初から71年の林彪事件まで間、共産党最上層の、さらにその奥の奥で展開された権謀術策を弄した血で血を洗う権力闘争を縦糸に、林彪の長男で事件の主役とされている林立果の短かくも波乱万丈に富んだ激浪の人生を横糸に、文革という未曾有の混乱が引き起こした国内不安のなかでも生き抜く人民の姿を描いている。
林彪事件が発生したのは、ちょうど今から40年前の71年。毛沢東を筆頭に当時の共産党中枢の大多数が複雑微妙に絡んだ権力闘争が背景にあるだけに、共産党の一党独裁が続いている間は事件の真相が明らかになる可能性は限りなくゼロに近いといわざるをえない。それというのも林彪事件の真相が暴かれることは、とりもなおさず共産党統治の正当性の基盤を揺るがすことになるからだ。この本を仔細に読んでみると、著者が事件の遠因・近因として指摘している“出来事”が、改革・開放以後に発表された研究書などが指摘する点と微妙に符合していることから考え、おそらく著者は当時の共産党中枢の高度な秘密を知る立場に在ったのではなかろうか。ならばこの本は、「政治推理小説」に名を借りて毛沢東王朝の宮廷政治の醜さを暴くべく意図されたドキュメントといえないこともない。
毛沢東からの寵愛を獲得すべく繰り返される側近の暗闘、相剋、鞘当て、離合集散など、権力を巡って目まぐるしく展開するストーリーは、権力を求めて蠢く共産党幹部の浅ましくも凄まじい生態を描き出して興味尽きないが、それにもまして「あとがき」は注目だ。
著者は「おだてあげられて革命者となったあの高級幹部たちの豪勢な暮らしぶりはどうだろう! 彼らはまるで党規や国法の概念などないのだ。人妻を寝取り、女性を辱めることなど、彼らの生活のほんのひとコマにすぎない。公を私となし、金銭を湯水のように費やし、人民を奴隷視し、その残忍なまでの搾取はとどまるところを知らない」と、「あの高級幹部」の持つ醜悪な生態を明らかにし、政治的に林彪勢力を屠って新しく共産党中枢を押さえた四人組が党宣伝部門の総力を挙げて「(負け組である林彪らの)醜い私生活や、法規を乱した様相を紙面に掲載した」が、それは「この一群の者たちと人民の関係が、すでに主人と奴隷との関係に変貌し、支配者と被支配者側の双方の間の激しい階級対立が生じていたことを物語っている」と指摘し、とどのつまり「林彪と四人組の時代に流された害毒は、いまなお糸を引いている。官僚主義、特権思想、裏口行為、(中略)これらすべては、なんと社会主義体制に矛盾する事柄であろう」と告発する。
かくて著者は「元のポストに返り咲き、敢然と現実に立ち向かい問題を解決しようとする鄧小平副主席は・・・人民に一縷の希望をもたらしてくれた。願わくは、この希望の光がますます明るく耀き、わが同胞が心を一つにして、祖国中国を立派な民主法治国家に建設されるよう、心から祈るものである」と、鄧小平に大きな期待を寄せている。
「あとがき」の日付は「一九七八年十二月十五日」。つまり鄧小平が強い指導力を発揮し、現在の経済大国への道に繋がる改革・開放政策に踏み切ったと同時期だ。あれから30余年、著者が「心から祈」ったことに反するように「高級幹部たちの豪勢な暮らしぶり」「公を私となし、金銭を湯水のように費やし、人民を奴隷視し、その残忍なまでの搾取はとどまるところを知らない」生態に変わりはなさそうだ。なんと元の木阿弥・・・ヤレヤレ。《QED》
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