樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《老天爺 你聴我説 我人生》⇒《お天道さん お聞き下さい 来し方を》

  【知道中国 564回】            一一・四・念九

     ――青年・毛沢東、中国と中国人を語る

     『毛沢東初期詞文集 中国はどこへ行くのか』(岩波現代文庫 2000年)
  
 1912年から20年までの毛沢東の文章や詞が納められ、「《毛沢東》になる以前の毛沢東がここにいる」との惹句がついたこの本には、窮迫し混迷一途の社会情況に苛立ち、政治や時代に対する遣り場のない不満をバネに世の中をデングリ返してやれとの野心を沸々と燃え滾らせていた若き日の毛沢東がいた。同時に、革命の道に一歩足を進めるに到る初志が秘められている。だが、その志が野放図で稀有壮大ながら純朴であればあるほどに、後に共産党を率い革命を成就させ結果として人民を権力闘争の荒波に翻弄させることになる《毛沢東》を思い浮かべながら読み進めると、なんとも不思議な思いに駆られてしまう。

 若い勢いに任せて「中国四千年といっても空っぽの屋台骨だった」だけで、「諸悪の根源は『中国』というこの二文字にある」と切り出し、「現在の中国はきわめて危険である」と危機感を募らせる。しかもそれは「全国人民の思想界が空虚で腐敗し、腐敗が十二分まで達している危険」だ。じつは「中国の四億人のうち、だいたい三億九千万人が迷信家であ」り、「鬼神を迷信し、物象を迷信し、運命を迷信し、強権を迷信している。個人が存在するを認めず、自己が存在するを認めず、真理が存在するを認めない。これは科学思想が未発達な結果である」そうな。だからこそ、「中国には科学的なアタマがない」と言い放つ。

 次いで中国人については、「わが国の人間はおのがじし、いちばん割の合わない、いちばんろくでもない、私利の追求しか眼中にな」いから、「大規模で組織的な事業には、わが国の人間はまったく手がだせない」。「もともと中華民族は、何億人が何千年にもわたって、奴隷の生活をおくってきた」。そして「多くの中国人は虚栄心が強くて、でっかい帽子をかぶるのが好きだ。なにかが起きれば眼をひらいて前方をみるが、おおざっぱに遠くから眺めて、それでおしまいだ」。ここでいう「でっかい帽子」とは、その人間に相応しくない肩書きや地位を指すわけだが、いうならば見栄っ張りでお調子者とでもいおうか。

 さらに中国人が持つ「かならずや上をみて下をみず、虚[表面的なこと]には努力して実[実際的なこと]には努力しないという悪い癖」を挙げ、これが「大々的に発作をおこし」て、社会は大混乱に陥ってしまうと指摘する。また「道理をかえりみない連中は、千百年の悪劣な社会によって鋳型にはめられ、自分ではままにならない。・・・連中が朝から晩まで思いなやむことといえば、死にたくないとか、金儲けしたいとか、世間の評判はどうだろうとか、こういうことだけです」と、ズバッと切り捨てた。

 要するに青年・毛沢東の目に映った中国と中国人は、なによりもダメということだ。だが、そのダメな中国人を鍛えあげ、ダメな中国をでんぐり返してやれと思い立ったわけだから、毛沢東は相当に苛立ったに違いない。そこで「不快なことにでくわすと、それに刺激され、制止しがたいほど心神が動揺するものだ。こんなときははげしい運動をやってみよう。たちまち自分をしばっていた観念はどこかへ消え、頭脳は新鮮さをとりもどす。効果は、てきめんにあらわれる」ということになる。

 革命闘争の渦中で、毛沢東はダメな中国人にイラついたはず。そこで「はげしい運動をやってみ」た。文革なんぞは、その典型だろう。だが「頭脳は新鮮さをとりもどす」わけもなかった。なんせ相手は「何千年にもわたって、奴隷の生活をおくってきた」「中華民族」ではないか。毛沢東が死んだら、いつしか「私利の追求しか眼中にな」い中国人に戻ってしまった。嗚呼、毛沢東も中国人にゃ敵わない・・・可笑しくも哀れで酷な話だネェ。《QED》