樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《我人生 従頭到尾 好辛苦》⇒《人民の 堪忍袋は 無限大》

  【知道中国 565回】            一一・五・初一

      ――周恩来、アンタはホントにリッパすぎます

  『緬懐周総理対文物考古工作的親切関懐』(国家文物管理局理論組 文物出版社 1977年)
  
 この本は「偉大なるプロレタリア階級の革命家、全国人民が衷心より尊崇し愛護する周恩来総理が我われの許を去ってから1周年」を記念し、「周総理生涯の偉大なる功績を心から懐」って出版された。「周総理生涯の偉大なる功績」とは、「周総理が毛主席の『古為今用(イニシエを今に用いよ)』との偉大な教えに基づき、文物考古工作に関し系統的で原則的な指示と具体的な指導を行い、文物考古工作に明確な方針を示した」こと。つまり飽くまでも毛沢東のいうがままに動き、その指示に従って歴史遺産を守った。これを些か底意地悪く表現するなら、周恩来は毛沢東の従順な僕であり、執事だったということだろう。

 1951年12月、稀代の書家で知られた王献之や王珣の筆の名残を現代に伝えるといわれる「中秋帖」「伯遠帖」が香港で競売に掛けられようとし、「帝国主義者が分不相応にも欲しがっていた」。「その事情を知った周総理は、直ちに指示して買い戻し、外国人が持ち去ることを断固として阻止した」という。以来、周恩来は北京の都市再開発によって解体寸前の歴史的建造物や全国各地の古跡の数々を守り、時に「文物管理保護条例」の制定に努め、時に共産党革命にとって重要な蜂起拠点などの保存に積極的な役割を果たした。とはいえ、飽くまでも自分を殺し、毛沢東を立てる。終始一貫・篤実従順ですかねえ。

 61年のことだ。ある武装蜂起地点に建てられた記念館を訪れた際、武装蜂起における自らの働きに就いての話を望まれた際、「当時、農村での革命根拠地の重要性を提示していたのは、毛主席たったお一人だったと語った。周総理のこのようなプロレタリア革命家としての崇高で気高い品と徳は、我われにとって喩えようもなく深い意義を持つ教育となった」そうだが、続いて「だが、あのブルジョワ階級の野心家、陰謀家、叛徒、売国奴はこの上なくのぼせあがり、我を忘れた己惚れ野郎であり、到るところに己を讃える碑を建て自らを顕彰したものだ。劉少奇、林彪がこうであり、四人組もそうだった。四人組の王・張・江・姚ヤロー共は『ニセ革命の反革命』を掲げ、なんと厚顔無恥にも自らを『正しい路線』としてそっくり返っていた。一貫して自己批判の真似事さえしたことがなく、どこへ行っても自分をひけらかしていた。大野心家、陰謀家の江青は大塞でチッポケな坑を掘っただけなのに、人々を動員して保存させ、あまつさえ記念に保存させようとしたのだ。これはとは明らかに対照的なのが周総理だ。この上なく高尚な品格と徳行が人民の愛戴と崇敬をえないわけがない。四人組の根性の、なんとも野卑で穢れてネジ曲がっていることか。人類のツラ汚しだ」といった文章を読まされると、鼻白む思いがしないでもない。

 なお、大塞とは毛沢東路線を学び自力更生で増産を達成した農村として文革期に大いに持て囃された農村のこと。当時、同じく自力更生によって労働者の手で開発されたとされる大慶油田とともに全国に知られ、「農業学大塞、工業学大慶」のスローガンは全国を席捲したものだ。後に、どちらもインチキであることが、当然のように暴露されてしまった。   
それはさておき、ここまで讃えられるほどに周恩来はリッパだったのか。あの猜疑心と権力欲が凝縮したような毛沢東に仕え、激越で冷酷非情な権力闘争を生き残った周恩来である。「この上なく高尚な品格と徳行」の下になにが隠されていたのか判ったものではない。
 にもかかわらず、ここまで褒めちぎるのだから、この本は周恩来に対する“誉める殺し”とも思える。彼らが狂奔する権力闘争の底の、底の、底の・・・底は余りにも冥く深い。《QED》