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樋泉克夫教授コラム
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~川柳~
《全国化 担白憶苦 今天堂》⇒《辛ければ 惨めな昔 思い出せ》
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【知道中国 571回】 一一・五・仲三
――侮日・仇日の根は深い
『現代支那の政治と人物』(波多野乾一 改造社 1937年)
「新聞社の支那技師として、編輯局の窓から、隣邦支那の動向を觀察すること、それが十數年來の私の仕事であった。一九三二年の上海事件を契機として、私はかうした仕事から離れ、家居して支那研究に專念してゐるが、心構へは少しも変らず、終始一貫、支那問題の平明なる解説者たらんことを期してゐ」た。かくして当時を代表する総合雑誌に発表した「支那時局解説」から、「鶏肋棄つるに忍びない五十數編を撰」し、この本となった。
この本の興味深い点は、自らが表明している「支那研究者の右翼である」著者が、国民党・共産党・親日派の3派が複雑微妙に絡み合った中国において、個々の政治家や軍人などの個人的履歴や人脈をどの程度まで捉えていたのか――だろう。
たとえば毛沢東だが、「『毛澤東は支那人ぢやない。渡邊政之輔だ』筆者に、かう、眞面目にいつてきかせた人がある」というほどに、毛沢東は「數年前までは、神秘的な存在とまでは行かなくても、それに近いものであつたことは爭はれな」かった。非合法時代の第二次日本共産党で指導者を務め、台湾の基隆で官憲と銃撃戦の末に拳銃自殺を遂げた渡政(わたまさ)こと渡邊政之輔(1899~28)が、じつは中国大陸に逃れて毛沢東に。なにやら義経=ジンギスカン説を髣髴とさせるような“伝説”を、「眞面目にいつてきかせた人があ」ったというから、当時の日本では一般に毛沢東は“その程度”の扱いだったということだ。だが、この本出版から12年後、毛沢東が共産党を率い国民党を打ち破り政権を樹立したことを考えれば、インテリジェンスに対する日本人の驚くばかりの感度に鈍さは当時からのものであったと、改めて慄然とさせられる。
さすがに波多野は、「農民運動の研究を怠らず、有名な新聞好きで、朝から晩まで、何かしら新聞を讀んで、時勢の動きを睨んでゐた」毛沢東の姿を捉え、「この雄厚な兵力を提げて、總帥毛澤東――陰險蛇のごとく、敏捷狐に似た彼が、今後いかなる動きを見せるか? (中略)毛の鋒先が、内蒙古に向けられたらどうなる? 北支赤化共同防衞といふ國際的大經綸を、すでに天下に公にしてゐる日本は、黙ってゐるわけには行かなくなるだらう。我等の関心はここに於いて、この『赤色の豹』毛澤東の一擧一動に集中せざるを得ないのである」と結んでいる。
盧溝橋事件発生半年前、波多野は「日本に力があるから、排日とか反日とかいふのだと、自惚れていた時代があったが、今日はそんな呑氣な事態ではない。最近の宣傳傾向は、抗日から侮日に變つて來てゐる。日本がイヤだ、恐ろしいといふのではなく、一目散に仇日、侮日までて來てゐる。恐ろしいといふ感じよりは、最後には支那が勝つのだと思ひ込んで來てゐるのだから始末が惡い」と綴った。まるで21世紀初頭の今日の日中関係を思わせる記述だ。波多野は排日・反日から仇日・侮日へと中国の思潮が変化したと看做すが、彼ら民族の底流に素朴な仇日・侮日の感情が消し難く存在し続けていることを考えれば、先ず仇日・侮日が横溢し、それが排日・反日へと過激化していった考えるべきだろう。排日・反日が昂じて仇日・侮日に変質するという「支那研究者の右翼」の考えは、承服できない。
毛沢東、蒋介石、汪兆銘に加え有力軍閥など中国要路に対する波多野のインテリジェンスを、その後の彼らが演じた権力芝居を振り返りながら読み進むと、当時の日本陸軍当局の硬直した「支那観」が波多野のインテリジェンスによって幾分でも改められていたら、その後の日本の中国政策の肌合いは違ったものになっていただろうと思えるのだ。《QED》
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