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樋泉克夫教授コラム
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~川柳~
《赴前線 抗美援朝 離不開》⇒《”血の友誼” あの日あの時 はじまった》
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【知道中国 575回】 一一・五・念一
――いまさら・・・そういわれても・・・ねえ
『戦後日本人の中国像』(馬場公彦 新曜社 2010年) 「日本敗戦から文化大革命・日中復交まで」との副題を持つこの本は敗戦直後から文革を経て70年代中葉までの間に『文藝春秋』『中央公論』『改造』『世界』『諸君』『潮』『現代の眼』『朝日ジャーナル』などの総合雑誌に掲載された中国関連論文を整理し、誰がどのような主張を展開したかを捉えている。博士学位請求のために書かれた論文が下敷きになっているだけに分厚く、議論は過度に錯綜する。その読み難さを我慢して読み進む必要は必ずしもないが、巻末に付せられた当時の論壇をリードして多彩な中国論を執筆した研究者やジャーナリストと著者とのインタビュー部分だけは、是非とも一読しておきたい。
そこには戦後論壇を闊歩した親中・嫌日派も登場して各自が身勝手な回想に耽っているが、毛沢東時代の中国経済を「自立経済」と讃えた小島麗逸のそれは一味も二味も違う。 彼は「雑誌に載った八路軍に残った日本人の記録を読み」、「結婚して家内の家に行って(義父の)話を聞き」、八路軍=共産党が「ますます清潔だと思うようにな」ったそうな。かくして「文革が起こるまではその印象は変らず、これが私の中国を見る眼を歪めた」と、先ずはアッケラカンと自らの誤りを認める。
1963年、所属する研究機関から派遣され香港で研究生活を送っていた小島のところへ、「私の中国研究に影響を与えた」「一橋大学の靳先生」がふらりとやってきて、「奥さんが天津から一〇年ぶりにあいにくる」といってマカオに向かった。「一ヵ月くらいしてマカオから香港に戻ってき」たが、「金の延べ棒を持ち出すことに失敗した」とのこと。ところが、それから10年して文革時代の中国を訪れ、ある偶然から「靳先生」の正体を知る。「実は靳先生はマカオに行ったのではなく、北京に帰っていた」。しかも「実は日本外務省の動向を知るために、共産党のその筋が靳先生を召還したのだとわかった」。そこで小島は「これが統一戦線なんだなあと実感し」、さらにさらに「革命は毛沢東理論とかいう話ではないと思」い、「そのときから中共の発する文献を別の目でみるようになった」という。
結局、小島は毛沢東率いる中国と中国人を判っていなかったことを認める。そして、「見事に裏切られました」「そのことが、当時見えていませんでした」「そこもまた見誤った原因の一つです」「権力闘争が民衆を巻き込んだことが(文革の)あのような悲劇を生む、というマイナス面を理解できなかったのです」「共産党はすばらしいという認識の化けの皮がはがれていきました」「中国のすべての論争は過去の人口に膾炙されている言葉を使って現在を批判する工具にしているという発想を持ちませんでした」「党内で激しい権力闘争があるという視点を十分に持ち合わせていなかった」「権力の性質に対する理解が少なかったのです」と、滔々たる自己反省の弁を重ねる。
かくして、「こう見てくると、統計資料を含め全く出されない情況下での中国研究の見誤りは当然といえば当然ですが、節穴の眼に起因することを認識せざるをえません」と、自らの目が「節穴」であったことを認める一方で、かつて親中派が保守反動・反共主義者・反中主義者・中国蔑視派・アナクロ支那通と蔑んでいた「佐藤慎一郎先生や桑原寿二さん」に対しては「中国の実態をきちんと書いていた」と高く評価することとなる。
戦後の日本を覆ってきた中国と中国人に対する幻想・幻影の根本要因が、小島の自戒の弁に現れているように思う。「私の中国を見る眼を歪めた」などと口にするが、それが結果的に対中論議のミスリードに繋がった・・・曲学阿世の戯言で済ましてはならない。《QED》
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