樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《赴新疆 另起炉灶 凈屋子》⇒《今日からは ソ連の子分と いうことで》

  【知道中国 584回】            一一・六・初八

     ――老紅衛兵たちの悔恨と自負

     『何日君再来』(張戦国 南美書局 1987年)

 文革開始時、いち早く学園から飛び出し、「老子英雄児好漢、老子反動児混蛋 基本如此(父親が英雄なら子も好漢、オヤジが反動なら子もゴク潰し。これが基本だ)」なる過激なスローガンを掲げて北京の街を暴れ回った超過激な一群の紅衛兵がいた。最初に立ち上がったことから老紅衛兵と呼ばれる彼らは、じつは高幹子弟(=高級幹部子弟。つまり今風にいうなら「太子党」)であり、父親や祖父の許に寄せられる党中央内部の機密に日常的に接することができるゆえに、文革の動向をいち早く掴み、初期の文革を過激にリードした。

 この本には当時の運動に対する悔恨と懺悔が強く感じられるところから、著者は老紅衛兵の一員だったようにも思えるが、それにしても身勝手と自責と自負の念が入り混じった、なんとも奇妙な回想録ではある。

 じつは彼らの過激な言動の根底には、中国と自らの将来に対する強い危機感があったとも指摘されている。つまり自らは革命の「接班人(後継者)」を自任し“親の七光り“で特権を享受していたが、劉少奇が進めた成績に基づく教育路線が定着した暁には、自らが享受してきた特権が奪われ、自分たちの将来は暗澹たるものになってしまうというわけだ。

 建国前に資本家や地主だった父祖を持つ「出身不好」の学生であるにもかかわらず、教室における成績が良いというだけで、彼ら高幹子弟を差し置いて優遇されるような教育制度は階級社会に背いていると、著者らは考えていたようだ。率直にいって自分も一生懸命勉強すればいいだけのことだが、特権を享受することに慣れ親しんできた彼らにしてみれば、その特権が侵されるかもしれないという将来への不満もあったということだろう。
 彼らの考えは「出身論」として否定されることになるが、ならばと彼らは新しいスローガンを持ち出す。「老子革命児接班、老子反動児背叛 応該如此(父親が革命的なら子が受け継ぎ、父親が反動なら子は反抗する。かくあるべし)」である。

 66年秋、彼らの過激な振る舞いに手を焼いた毛沢東率いる文革派は労働者を軸とする造反派紅衛兵組織にテコ入れし、老紅衛兵潰しに乗り出す。かくて66年末から67年初にかけ、彼らの運動は消滅せざるをえなかった。

 毛沢東らが推し進めた冷厳な“大人の政治”の前に一敗地に塗れる。かくて著者らは敵対した造反派紅衛兵に対し、「キミらは聡明で、才能もある。だがキミらの出身は高々知識分子か極めて当たり前の労働者や市民家庭であり、キミらは権力からは遥かに隔たった存在だ。では、我ら老紅衛兵はどうなのか。我われもまた凄まじい気迫を持っているが、なにより重要なことは、我われは権力に極めて近い立場にあり、我われと権力とは自ずからの間柄にあるいうことだ。いずれ将来、我われがこの国家の権力を握るから、(それまで)キミらはしっかりと建設してくれ給え。信じないなら、二十年後に会おうではないか」との捨て台詞を遺して、文革運動の表舞台から去って行った。だが・・・。

 時移り人変わり、いまや太子党として政界や経済界の中枢に在って「国家の権力を握」っている元老紅衛兵も少なくない。もちろん少数ながら体制批判派に転じた者も見受けられるが、次期トップの習近平も元老紅衛兵の一員との指摘もある。「信じないなら、二十年後に会おうではないか」と傲然と言い放つ根拠は、やはり「我われは権力に極めて近い立場にあり、我われと権力とは自ずからの間柄にあ」ったということだろう。それにしても戦時中に日本で流行った流行歌の「何日君再来」を書名に借用するとは、意味深だ。《QED》