樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《凈屋子 土改突出 喪田戸》⇒《カクメイだ 問答無用 土地よこせ》

  【知道中国 585回】            一一・六・十

    ――毛沢東思想的小型サイボーグたちの“百花繚乱”

    『在毛沢東思想哺育下成長』(人民出版社 1971年)
  
 劉少奇抹殺を文革の第1段階とするなら、この本が出版された当時は第2段階だったといえるだろう。つまり毛沢東は劉少奇斬りの先兵として用済みとなった紅衛兵をお払い箱にして都市から追放し、返す刀で林彪を葬っていた。次の段階は人民解放軍内の林彪系を排除し、その影響力を極力殺ぐことだったはず。

 その一方で、毛沢東は紅衛兵に代わる新しい支持勢力を育てることに腐心する。そこで登場するのが、年端も行かない子どもを煽てあげて作り出された紅小兵だ。なんせ彼らは、紅衛兵たちのように理屈を弄ばないし反抗もしない。素直そのもの。右向けといえば右を向き、アイツが敵だと指差せば遮二無二突撃する。毛沢東思想で純粋培養された、無邪気であるがゆえに残酷で凶暴さを備えた“最強兵器”ということになる。

 表紙を開くと、毛沢東の筆跡で「好好学習、天天向上(よく学び、日々向上)」のアリガタ~い8文字が。次いで目次に目をやると、「毛主席は私に力を与えてくださった」「集団の財産はこれっぽっちも失ってはならない」「石のように硬い心は、さらに紅く」「お父さんのように、革命の車を一生懸命引っ張るぞ」「小学生から思想教育を」「革命のために学習だ」「毛主席の教えに従って事を為せ」「敢えて“私”と戦うぞ」「解放軍のおじさんの教え」「貧農・下層中農に学ぶ」「革命の後継者となることを誓う」と、表題を読むだけで内容が判ってしまうような、紅小兵たちの熱い念が込められた文章が続く。

 湖南、内モンゴル、河南、北京、上海、江蘇、遼寧、寧夏など中国の各地で「毛沢東思想の哺育の下で成長」した“立派すぎる子どもたち”が次々に登場し、手を変え品を変えて超人的な働きを報告してくれる。

 たとえば、10歳の少女の戴碧蓉チャンは、1968年9月14日、父親の職場である湖南省株洲駅の操車場で、3人の「小朋友」に命を救った。

 その日、彼女は籠を手に線路脇を歩きながら、向こうから走ってくる貨車を認めた。手前の線路には夢中で遊んでいる3人の子ども。「危ないよ。速く逃げてェー」と叫ぶが聞こえそうにない。このままでは3人とも轢き殺されてしまう。「どうしよう。どうしよう。その時、『人民のために死ぬことは、(中国最高の霊山である)泰山よりさらに重い』という毛主席の教えを思い出す」。もちろん、線路に飛び込んで1人を助ける。ずんずん近づいてくる貨車。そこで、またまた戴チャンに勇気を奮い立たせたのは、「『我らは人民のために死ぬなら、まさに死に場所を得たというものだ』という毛主席の教えだった」・・・とさ。

 最後の1人を救おうとしたが、「10歳の私に余力は残っていなかった」。それでも死力を尽くして助けた瞬間、無常にも彼女は疾走してくる貨車に巻き込まれる。病院に担ぎ込まれ手術だ。「痛い。だけど決して泣かないワ。だって毛主席の紅小兵だもん。どんな困難にだって音をあげないワ」。「毛主席語録を読めば全身に力が漲り、痛みなんか忘れちまうの」。

 半月が過ぎれば10月1日。国慶節だ。その夜、彼女は人民大会堂で居並ぶ大人たちの最前列で、毛沢東の接見を受けるという飛びっきりの栄誉に浴す。「私は、この最高の幸せを永遠に記憶しておこう。毛主席の指導に従って永遠に革命を続けるの」と、日記に記した。

 あれから45年ほど。彼女も50代半ばになっているだろう。あの時の「最高の幸せを永遠に記憶し」、「毛主席の指導に従って永遠に革命を続け」ている・・・まさか。《QED》