樋泉克夫教授コラム

~川柳~ 
《就開始 我的著作 搶而光》⇒《知識人 批判の刃 浴びせられ》
*1954年末、共産党の刃はいよいよ知識人に向かいはじめた

  【知道中国 599回】            一一・七・初八

      ――劉少奇は「史書は人々が互いに食い合ったと書くだろう」・・・と

       『威風と頽唐 中国文化大革命の政治言語』(吉越弘泰 太田出版 2005年)
  
 「威風」に「がっかりする、うち萎れる」を意味する「頽唐」を配した書名が気に入って手にしたが、上下二段組で600頁超。本の重さと膨大な文字の量に、先ずはウンザリ。だが気を取り直して読み進むと、噛めば噛むほどに滋味深さが味わえる上質のするめのように、著者が「頽唐」の二文字に込めた慙愧・落胆・憤怒の念と膨大な関連書籍と格闘する息遣いがヒシヒシと伝わってきて、本の重さは、いつしか心地よさに変わっていく。

 サブタイトルが示しているように、この本は65年の「新編歴史劇『海瑞の免官』を評す」(姚文元)から四人組にとっての断末魔の叫びにも似た76年の「『永遠に毛主席の既定方針通りに行え』を守ろう」(梁効)まで、文革を方向づけた重要論文の内容と書き手の動向に関する詳細な分析を通し、文革の意味を問い直そうとする。確かに画期的な試みだ。

 「非理性と暴力に充ち充ちた時代として思い描かれることの多い文革期は、しかし同時にこれまで見てきたように理念と情熱にもとづく多くの言葉と文章とが飛び交った時期でもある」とする筆者は、文革に中国の伝統政治文化の影を認める一方、共産党の資質そのものに文革の原因を求める。

 著者は「古来、中国政治の伝統の中で文章の比重は大きかったのだが、文革期のそこにはさらに『革命』期の特徴たる言葉の沸騰がつけ加わったのであり、しかも言葉の役割は(中略)肥大化していった」とし、かくして「紅旗を振って紅旗に反対する」「毛沢東思想を掲げて毛沢東思想に反対する」といった類の「単純かつ牽強付会な批判の論理」が横行してしまった、と語る。そこで生まれ巧妙化したのが「影射」、つまり当てこすりでありデッチ挙げという表現手法であった。はっきりとは名指しせず、それとなく誹謗中傷し、徐々に政敵を炙り出し、批判の無間地獄に陥らせ、自壊させようというのだ。加えるに非論理性を覆い隠そうとするがゆえの大口、空論、強硬、罵倒。かくして、「典型的な無内容かつ粗雑な文章」を掲げての威嚇に行き着く。かくて劉少奇は文字地獄に嵌ってしまったのだ。

こういった傾向を助長したのが「中国共産党と毛沢東に当初から根深くある異論を異論として見るのではなく、すぐさま旧支配層の残滓、反共勢力と見る傾向」の「全面化」であり、党幹部の間で「社会主義中国が蓄積してきた多くの憎悪や怨恨が渦巻いてい」る情況が、文革をより一層悲劇的で残虐なものへと駆り立てていったというのだ。

 一方、共産党の制度に就いて、「鄧小平復活後の中国共産党が『文革』を全般的に否定したのは、これらの組織と造反が発生した所以である正義性を覆い隠すためであり、中国共産党の制度が生み出したものを覆い隠すためであった」という元紅衛兵の見解を引いて、共産党幹部が長年にわたって極めて濃密な個人的関係を持続し、延安以来のもたれ合い関係の中で時に敵、時に味方となって互いに激しい権力闘争を繰り返し、政敵を屠り、生き抜き、権力を保持してきたことが、事態を一層複雑で外部からは判り難いものにしてしまった。いわば彼らは互いに脛にキズを持ち、そのキズの拠って来る所以を熟知しながら、共産党そのものを守り、それによって自らの既得権益を拡大しようという一点で結びつき、ほの暗い権力の道を歩いてきた――これが著者の見解といえるだろう。

 やはり共産党幹部は疑心暗鬼の権化。超極太神経の持ち主でなきゃあ、ダメだナ。《QED》