樋泉克夫教授コラム
~川柳~
《来求同 双百方針 快要来》⇒《人民は 毛に煮え湯を 飲まされる》
*56年5月、毛沢東は「自由闊達な党批判を歓迎」と呼びかける
【知道中国 606回】 一一・七・念二
――右といわれりゃ右を向く・・・善良一徹な共産党員もいたんです
『王杰日記』(解放軍報編輯部編 人民出版社 1965年)
この本には、雷鋒より少し遅れて登場した毛沢東思想学習のための全国向けの“生きた教材”である王杰の日記の主要部分が収めてある。
冒頭に当時の共産党官製メディアの中核であった「人民日報」と「解放軍報」の社説が何本か置かれているが、表題を見ただけでも王杰の自己犠牲の人生が異常なまでに讃えられていた情況が容易に判るに違いない。たとえば、「一に苦を、二に死を恐れず ――王杰同志の一心を革命のために捧げた崇高な精神を学習せよ」(65年11月8日)、「一心を革命のため、一切を革命のため ――毛主席の優れた兵士の王杰同志に学ぶ」(65年11月8日)、「『毛主席がこう仰るなら、私はそうする』 ――再び王杰同志を論ずる」(65年11月10日)
先ず人名事典風に綴ると、王杰(1942年~65年)は山東省出身の解放軍兵士。入隊は61年で済南部隊装甲兵工兵連(中隊)班長。62年、共産主義青年団に加入。65年7月、民兵訓練中に爆弾が暴発しようとした際、現場にいた12人全員を救うべく爆弾に覆いかぶさり爆死。自己犠牲の模範として全国的に讃えられ、死後に党員として追認された。遺品のなかに63年から書きはじめられた10万字を超える日記が見つかり、主だった部分を抜粋し、この本を編んだとのこと。そこで面白そうな、いや興味深い個所を拾ってみた。
■63年(日付なし)=「俺はレッキとした革命者であり、革命のための優秀な種となろう。党と国家から遣わされるなら、何処にでもいって根を張り、花を咲かせ、実を結んでみせるぞ。必ずや砂漠を緑の長城に、荒れ果てた山を実をたわわに稔らせた果樹園に、田を一面の黄金色の大地にしてみせるぞ」
■63年2月20日=「毛主席の立派な戦士である雷鋒――。彼がなしたことの一つ一つは平凡なことだ。だが、こういった平凡なことこそが彼の高貴な革命的品格を鍛え上げたのだ。平々凡々な日常業務の中からこそ、人を感動させる偉大な事跡が生まれるのだ」
■63年4月22日=「王杰よ、王杰、お前に警告しておこう。任務を遂行する際には、誠心誠意で言行一致、裏表なく苦労を厭わず、生真面目に取り組め。王杰よ、深く心に刻んでおけ。自らの欠点をしっかりと自覚し、断固として改め、虚心に学び、生真面目な人間にならんことを」
■63年8月21日=「旨いものを食べ、キレイな衣装を身に着けるなんてことは幸福でもなんでもない。貧苦に喘いでいる世界中の虐げられた人々が平穏な生活を送れるようになってこそ幸福といえるのだ」
■64年7月25日=「毛主席の著作学習は長期的視点から着目しなければならないし一生の大事だ。林彪同志が指し示す『問題意識を持って学び、活学活用し、実際の問題に結びつけ、先ず学び本質を掴め』の原則を生真面目に徹底して貫かねばならない」
■64年9月3日=「毛主席の著作学習を通じ、革命こそが我が理想であり、闘争こそが本当の幸福であることを身に沁みて学んだ」
『王杰日記』は「新しい中国の次世代を見よ! 彼らは重い任務を担うことができる。彼らには祖国の建設と防衛ができるはずだ」で結ばれている。彼が生き返り現在の自己中・金満振りを眼にしたら・・・以って瞑すべし。いや彼も自らの人生を悔やみ、カネ儲けに邁進したに違いない。「新しい中国の次世代」よ。仲良くやろうぜ。ヨロシク!《QED》