樋泉克夫教授コラム

~川柳~
《就開始 人民一斉 去地獄》⇒《人民は 地獄の門に 吸い込まれ》
*大躍進政策は人民に忍従と困苦と飢餓とを強いる政策でしかなかった。

  【知道中国 620回】            一一・八・仲六

      ――執心財貨過誤は他へ転嫁

      『兄弟 (上下)』(余華 文藝春秋 2010年)

 共に幼い息子を持った男女が結婚するが、文革の渦中で無惨な死を迎える。両親を亡くした兄弟は、血は通ってはいないものの互いに助け合い文革の荒波を乗り越え、やがて改革・開放の時代。弟は図太く逞しく利用できるものはなんでも利用してカネ儲けに邁進する。だが、誠実だけが取り柄で不器用に生きることしか知らない兄は、轟音を挙げて猛進するカネ儲け至上社会の荒波に呑み込まれ寂しく死んでゆく。必死ながら滑稽、それでいて明るく逞しく生き抜く中国庶民の姿を通し、我が国メディアが決して伝えようとはしない文革から現在までの中国社会のありのままの姿を生き生きと描きす小説だ。

「(階級の敵と看做された)彼らの顔を手で叩いてもいいし、彼らの腹を足で蹴ってもいいし、鼻をかんで彼らの首に鼻水を流し込んでもいいし、ぶらさげているモノを取り出して彼らの体に小便をかけてもいいんだ。彼らはバカにされても口を勇気はなく、他人を睨みつけることもできない」
 「紅い腕章の連中(紅衛兵)は、彼(毛沢東の敵とされた人物)の両手両足を縛り挙げた。外で捕まえてきた野良猫を、彼のズボンに入れ、ズボンの上下をきつく縛った。野良猫は一晩中ズボンのなかで噛んだりひっかいたりした。彼は一晩中死にたいほどの痛みに惨めな叫び声をあげ、倉庫の中に閉じこめられた人々を一晩中震えあがらせた。気の小さい者は、ズボンの中で漏らしてしまった」
「紅い腕章の連中は刑罰の方法を変えた。彼を地面にはいつくばらせ鉄のブラシを探してきて、土踏まずをこすった」

――随所にみられるこういった記述を読むにつけ、文革とは、庶民による庶民虐めであり、勝ち組と負け組とが目紛しく交代するグロテスクで残酷極まりない権力と暴力のゲームであったことが浮かび上がってくる。だが改革・開放の時代に突入すると、一転して誰もが我先にカネ儲けゲームに狂奔しはじめる。かくて、激動の歴史から生まれたアッケラカンとした“その場限り”で“出たとこ勝負”の人生訓が次々に飛び出す。たとえば、
 「悪いヤツを見たら一発蹴りを入れるのは、ウンコをした後にケツをふくのと同じ道理だ」
 「木の生えている山が有る限り、将来薪の心配はない(命の綱が切れない限り、望みは有る)」
 「オレはションベンを焦っちゃいないってのに、お前が尿瓶を持ってどうするんだ?」
 「ありゃあ売春しながら、忠孝貞節の札をかかげてるってもんじゃねえか?」
 「良心は犬にかじられ、狼に食われ、虎にかみ砕かれ、ライオンの糞になってしまった」
 「木は動かしたら死ぬが、人は動かすことで生き生きする」
 「水は低いところへ流れていくが、人は高いところへ歩いていくものだ」

 それでも人間らしく、少しは戸惑いがあるのか、「今や時代が違う。社会は変わった。賄賂を握らせてようやく、商売ができるって具合だ。夢にも思わなかったよ。不正の嵐がこんなにも速く、すさまじかったなんてさ・・・」と、しおらしく反省もみせるのだが。

 ――カラッと残酷。目紛しく激変する中国社会をありのままの姿をテンポよく描き出す。もちろん、いい意味でも悪い意味でも。それにしても中国人って、落ち着かないナア。《QED》