樋泉克夫教授コラム

~川柳~
《増量法 更多加水 人造肉》⇒《必死なり 満腹求め 国挙げて》
*満腹感を得るため、当局は食糧の増量法を推奨したが、その多くは調理の際に余分の水を足すこと。”人造肉”の発明が大いに喧伝されたことがあるが、じつは白菜の切れ端だった。

  【知道中国 624回】             一一・八・念四

    ――「おたくの国(中国)の統治能力は落ちましたなあ」

    『戦後日本の中国研究』(平野・土田・村田・石編 平凡社 2011年)

 この本の帯封には「中国との格闘を11人の現代中国研究者に訊く」とある。その11人の生年は1918年から43年まで。いいかえるなら戦前の中国を体験した者から毛沢東時代に中国への関心を抱いた者まで。現代の中国経済、政治外交、政治史、思想、経済史、日中関係などの研究部門で各世代を代表すると思われる研究者に対して戦後生まれの若い世代の研究者がインタビューし、研究歴やら中国に対する考え、さらに日本における現代中国研究の在り方などを探ろうというもの。基本的には台湾大学の中国大陸曁両岸関係教学与研究中心(中国大陸・両岸関係教学研究センター)が進めている「世界の中国研究」に関する国際的な大型研究事業の一環だという。

 11人の中国に対する研究姿勢を大まかに括ってみると、「日本の学者やジャーナリストが、欧米のそれを受け売りしている」ことに違和感を持つだけでなく、「ヨーロッパ中心主義的な視座でつくられた中国像というのはウソだと思っていますから、とにかく自分で納得できるものを探したかった」と語り、飽くまでも1人の日本人としての立場から中国に立ち向かおうとするグループと、たまさか職業として中国研究をしているとでも表現できそうなグループに2つに分けることができるだろう。
前者の1人は「ただ誤解の無いように申し上げますが、僕は中国侵略にかかわった戦争責任があるとか、中国侵略を謝罪する立場を研究の立場とすべきだなどと言いたいのではありません。研究に短絡的に政治的な動機や目的を持ち込むことには反対です」。「ただ、生き方の自覚の問題として『原点』だというだけです」と語る。研究の姿勢と生き方、日本人として中国を如何に捉えるべきかといった点を研究の根底に据えているように思える。 

 これに対し後者の傾向が強く感じられる国際関係論的視点から中国研究に進んだ1人は「中国に対する侵略とか日中の文化的根っこは深いとか、そういう意味でのアイデンティティというのはとても薄いのです」とか、「どうも中国ばかり相手にしているとその『普通の感覚』が鈍ってきて危険ですね」とか、どうにも素っ気ない。いや、やけにノー天気だ。

 このような姿勢が反映しているのだろ。後者の代表的人物が某々機関からこれこれの額の外部委託研究資金を引っ張ってきて、これこれの大型研究プロジェクトを進めたと自慢げに語れば、前者のなかからは「外部委託とはなんのことですか」「まあ、たくさん私費を使いましたね」といった類の呟きも聞こえてくる。研究といったところで所詮は己のため。ならば自腹を切れ、である。それこそが己の道楽=生き方に対する矜持というものか。

 若い世代への助言を求められた前者の1人は「とくにないですね」と応えながらも、中国独自の歴史や伝統社会の仕組みから中国を再検討・認識せよと強調する。また「そんなものは、悪いけど俺にはわからんよ」と吐き捨てた1人は、早くも07年末の時点で「だから、中国は一歩一歩と歩いていくように技術を導入すればよいのです」と高速鉄道の危険性を指摘しながら、「なんでも世界一にならないと気が済まない」「大国意識」の底の浅さを事実を挙げて皮肉交じりに論証する。後者にはないリアルな中国認識に強く惹かれる。

 11人の発言を総括すると、若い世代であるほどに後者の傾向が強くなることが指摘できる。だが、やはり日本人としては前者の姿勢を大切にしなければならないし、断固として失うべきだはない。いや、むしろ積極的に涵養しなければならないと痛切に思う。《QED》