樋泉克夫教授コラム
川柳>>>>>>>>>>>
《三突出 英雄人物 高大全》⇒《ヘリクツに 京劇役者も きりきり舞い》
*「役者は実体験を通じて迫真の役作りを」との江青の厳しい指導の下、京劇役者たちは従軍し、糞尿を運び、獄舎に繋がれ、果ては銃殺の疑似体験まで。
【知道中国 643回】 一一・九・念五
――あの頃を思い起こせば・・・夢幻の如し
『人民公社在躍進』(上海人民出版社 1974年)
上海市の周縁部に位置する宝山区には新日鉄が全面協力して完成した“改革・開放のシンボル”ともいえる宝山製鉄所、以前は上海県と呼ばれた閔行区にはロケットと人工衛星の製造工場、嘉定区にはトヨタ、GM、VWの自動車工場に加え上海インターナショナル・サーキット、金山区には金山石化総廠、青浦区には機械製造、金属加工工場があり、長江の中洲に在るがゆえに市街地とは切り離されていた崇明区は上海長江トンネル・大橋の建設によって上海中心部と結ばれるなど、いずれも上海の一部となり、欲望全開の超巨大都市を支えている。だが、これらの区は、かつては産業といえば農業のみ。上海の後背地に位置し、遅れた貧乏な農業県でしかなかった。
この本の副題は「上海郊区人民公社的新経験(上海郊外の人民公社における新たな経験)」だが、ここでいう「新経験」は農業県に世界最新・最大級の製鉄所が誕生したなどといった類の甘っちょろい新経験ではない。まさに“革命的”な新経験であった。
「前言」は「毛主席が自ら発動し領導したプロレタリア文化大革命と批林批孔運動は、人民公社をしてより燦然と光耀かせた。毛主席のプロレタリア階級革命路線の指導の下、上海郊外地区の人民公社の広範な貧農下層中農は社会主義の大道を大きく歩み前進し、階級闘争・生産闘争・科学実験の三大革命運動において巨大な勝利をえた」と高らかに宣言している。ここからも容易に判るように、「新経験」とは人民公社が農村・農業・農民の生殺与奪の権限を一手に握っていた時代のものであり、「巨大な勝利」は「上海郊外地区の人民公社の広範な貧農下層中農」によってもたらされた、ということになる。
男女の給与を同額にし、計画出産を実施し、農村の民兵も積極的に階級闘争に参加し、夜間に開講される政治夜校で政治と思想の路線を真剣に学習し、自力更生で建設した小型工場を操業し、食糧の増産と大量備蓄を実現した――この本は、農村も農業も農民も人民公社の厳格な管理下で呻吟し、貧しい暮らしから抜け出すことの出来なかった頃の“麗しい成功譚”といったところ。だから嘘っぽく、突っ込み所は満載だ。
たとえば「1971年以前、南匯県において比較的落伍状態にあった坦直公社では食糧や綿花の生産は極めて低く、一般に『このままの状態で坦直が進むなら、のろまのロバが快速の馬を追いかけるようなもの。馬の影もみえない』と断言されていた」。だが、「72年以来、坦直公社の党幹部は党の基本路線をしっかりと把握し、批林整風と批林批判孔運動を徹底して深化させ、群衆を引き連れて社会主義の金光大道を奔馬に鞭をくれるように勇躍として前進した! 現在、坦直公社のプロレタリア独裁はより一層強固になり、社会主義の新しく高い気風は大いに発揚され、農業生産は急速に発展している」そうだ。
この報告を素直に読むと、71年までは坦直公社における「食糧や綿花の生産は極めて低」かったが、72年に林彪が権力の座から追放されてことで「社会主義の新しく高い気風は大いに発揚され、農業生産は急速に発展している」ということになる。さほどまでに林彪が害毒を流していたと主張したいのだろうが、71年までは毛沢東と林彪は共に文革を推し進めてきた「親密な同志」であったわけで、71年まで「食糧や綿花の生産は極めて低」かった責任を林彪1人だけにおっ被せるには無理がありすぎる。毛沢東も同罪だろうに。
今や爛熟の域に達した上海の市外地が糞尿塗れの農村だった頃の哀しい物語だ。《QED》