樋泉克夫教授コラム

川柳>>>>>>>>>>>
《為人民 挖洞積糧 不称覇》⇒《我が国土 防空壕を 堀りまくれ》
*1965年からの16年間、四川省を中心に西北・西南地域の山岳・渓谷・砂漠には、2052.68億元の予算と数百万の労働者、幹部、知識分子、解放軍兵士が投入され、1100を超える大中規模の軍事施設、科学施設、軍需工場、教育施設などを建設された。
  【知道中国 647回】            一一・十・初一

     ――これが中国人に生まれた悲哀・・・ってもんだろう

     『無風の樹』(李鋭 岩波書店 2011年)

 著者は「(それまでの)高度に抑制をきかせた整然たる書き言葉による叙述から、複雑に変化して止まぬ自由自在な口語口調へと変転するなかで、わたしはかつてなかった自由と豊かさを味わった」と語っているが、その「複雑に変化して止まぬ自由自在な口語口調」の文体は、読者をして戸惑わせるに十分だ。だが読み終わってみれば、こういうテーマの作品は、こういう文体でしか表現しえないものだろうと妙に納得できてしまう。

 小説の舞台は、文革末期の山西省呂梁山脈奥地に果てしなく広がる荒涼とした黄土大地に隠れるように残る「小人村」。登場する大部分は小人症の村人だが、これに村の外の世界からやってきた3人――村の男たちに買われた「共有の嫁」、色っぽい彼女をモノにしようと権力をカサにしつこく付きまとう人民公社革命委員会主任、村における「階級隊列純潔化工作」に自ら志願し邁進する下放知識青年――が絡む。

 村に残る封建制の残り滓を徹底して取り除き、文革を徹底深化させ、階級隊列純潔化工作を見事に成し遂げようとする若者にとって、元地主の旧悪を告発することは彼の主要な任務である一方、革命委員会主任の淫らな振る舞いは許せなかった。身寄りのない元地主には財産もない。農地は、共産党が権力を掌握する過程で実施した土地改革で取り上げられてしまったのだ。心根の優しい極貧農民にすぎない彼だが、元とはいえば地主である。ならば社会主義を転覆させようという邪な心を蔵しているに違いない。毛沢東に刃向かう「中国のフルシチョフ」たる劉少奇に連なる反動分子でなければならなかった。だからこそ若者は毛沢東の教えを忠実に、厳格に実行した。それゆえに悲劇が起きる。

 僅かな土地を受け継いだがために糾弾され、闘争に引きずり回され、追い詰められた元「富農」は自ら死を選ぶ。村人は貧しくも精一杯気張って野辺の送りを準備する。死装束を着せ、別れの羊肉うどんを作り、棺に納め、死者の願い通りに昔は彼のものだった農地の外れに葬ってやった。やがて村人たちは家路に就く。「土道にはなーんも無い」。「土道にはなーんも無うて」、「土道にはなーんも無い」。

 おそらく文革の時代、貧しく後れた全国の農村において日常的に起こっていたであろう悲劇を題材にした思いを、著者は「たんに『貧困』や『後れ』を描くことはわたしの本意ではなく」、「苦難や死に直面した人間の境遇を突出させんがため」に「『小人』を『文革』の大災害の中においた」とする。

「『文革』はわたしが生涯をかけて追究し表現すべき命題だと」「いつも思っている」著者は、「『文革』は中国人のアウシュビッツである。『文革』はすべての当事者がおのれでおのれにもたらした大災害であった。

 『文革』は外国と中国のあらゆる『理想』が燃えあがってできた廃墟であった。『文革』はすべての中国人の出発点である。それは、いかなる『愛国』的ないし『前向き』な理由も抹殺不可能な境遇だ。(中略)逃げ場のないかかる境遇があってこそ、われわれははじめて深刻に自己を追究することが可能なのだ。あるいは、これはわれわれの最後の追究となるやも知れぬ。あらゆる怯懦な逃避や卑怯な欺瞞などは、人間に対する逃避や欺瞞である。その追求の苦難はわたしはよくよくわかっている。だが、これは避けえない苦難なのだ」と呟く。

 ここにみえる「文革」の文字を、いずれ「強欲経済」に置き換える時が来るはずだ。《QED》