樋泉克夫教授コラム
川柳>>>>>>>>>>>
《去坐忘 狂々伋々 剃頭歌》⇒《なにゆえの くにをあげての ころしあい》
【知道中国 656回】 一一・十・仲九
――共産党による麗江解放・・・その実態とは
『忘れられた王国』(ピーター・グラード 社会評論社 2011年)
「一九三〇~四〇年代の香格里拉・麗江」の副題を持つこの本の著者は、20世紀初頭のロシアに生まれ、革命後の動乱のロシアを母親と2人で生き抜き、1939年9月から9年ほどを雲南省の古都・麗江で過ごしている。
著者は生産協同組合(Industry Cooperative)の活動家として、麗江周辺の山岳地帯に住む納西族、チベット族、イ族、トンパ族、リス族、カンパ族、ミャオ族、白族、白イ族、ロロ族、ボア族などの少数民族の間で工業合作社の組織化を進める傍ら、時に純朴で時に獰猛で、時に狡猾な彼らとの夢のような交流を持った。
やがて少数民族たちの貧しくも素朴で長閑な生活も終わりを迎える。共産党による「解放」がはじまったのだ。各地の少数民族の友人から情報がもたらされる。
「剣川、洱源それに保山にいる謎めいた一団は共産党の先兵隊であり、人々に紛れて潜入し、四川省と貴州省から移動してくる赤軍本隊の到着を前に、雲南省の住民を解放するための準備工作をしている」のだ。かくして「麗江は日毎に変わっていった。邪悪で、陰気で、深刻な空気が満ち、それが誰も望みはしない、逃げられぬ幻覚を生み出してはいないかと不安だった」。やがて、「とうとう恐れていた日が訪れた。麗江が解放されたとの発表がなされ、共産党の執行委員会が直ちに設立され、行政を引き継いだ」のである。
その執行委員会には「マークンという恐ろしげなマレー人の共産党員もいれば、粗野で、残忍そうな中国人もいて、どこかビルマ公路を走るトラック運転手として雇われたやくざ者を連想させた。彼らはタイのチェンマイを通り抜けて、マレー半島からまっすぐ保山に入っていた」と記されている。ここで「マークン」とカタカナ訳されている名詞は、おそらく漢字で「馬共」と簡略して綴る馬来亜共産党(マラヤ共産党)を指すのではないか。マラヤ共産党は英国海峡殖民地のマレー半島在住の華僑を中心に組織された反英殖民地武力闘争組織のことだ。ならばマークン(馬共)は北タイのチェンマイ経由で中国共産党と結びついていただけでなく、中国南部の「解放」にも一役買っていたということになる。
やがて共産党が地方政府の組織化に着手する。すると、「生まれてこのかた一度としてまじめに働いたことのない、ならず者や村のごろつきが揃いも揃って共産党の正式党員に取り上げられ、特別の赤い腕章とバッジを付け、共産党の象徴らしいアヒルのくちばしのようなひさしの付いた帽子を被り、大手を振って歩」くようになった。「昔ながらの納西族の踊りは禁止され、味も素っ気もない共産主義の踊りに変わった。人々の多くは青い制服を身につけ、賃金労働は禁止され、村人はみな共同で労働しなければならなかった。労働が終わると、疲れて眠りたいにもかかわらず、毎日集会で長たらしい革命理論を聞かされ、無理やり共産主義の踊りを踊らされた」のである。とんだ解放だ。やれやれ、である。
長閑な生活を送ってきた少数民族は耐え切れずに「ならず者や村のごろつき」による政治に不満の声を挙げるが、当然のように恐怖政治が展開される。「恐ろしい執行委員会による逮捕者は後を絶たず、たいていは真夜中に判決が下され、秘密裏に刑が執行された。ポアシー村の老人が、息子の指揮する部隊に射殺されたとの話も聞こえてきた」という。
日々の長閑な営み、歴史、文化、矜持・・・「解放」は多くのものを奪い去った。《QED》