樋泉克夫教授コラム
川柳>>>>>>>>>>>
《我不管 生計瀕危 大字報》⇒《オムレツは 卵を割らねば 作れない》
*スターリン時代のソ連で止め処もなく繰り返された粛清を正当化する意味で使われた台詞だそうだ・・・オムレツは革命、卵は政敵。
【知道中国 660回】 一一・十・念七
――老境に差し掛かった“毛沢東の良い子”の哀しさ
『我的回憶 青春与文革』(鄭偉昌 春城書屋 2011年)
「思い起こせば幼い頃の柔らかな頭脳に深く刻まれた『たじろぐな。憎む時は猛烈に憎め』という教えは、老境にさしかかった現在でも消えることはない」と筆を起こした著者は、建国の翌年に当たる1950年に生まれている。ということは、4500万人余の餓死者を出してしまった大躍進時代を小学生として過ごし、文革を高校生から大学生の間に体験し、毛沢東の死に26歳で、改革・開放には30歳を前にして直面したことになる。
著者は小学校から大学までの徹底した毛沢東思想教育を、「抗日戦争から国共内戦と続いた戦争の時代を『英雄の時代』と美化され徹底して頭の中に叩き込まれてきた」と振り返る。毛沢東は抗日戦争と国共内戦にみせた方式を巧妙に導入し、若者に戦いの夢を与えた。文革は「戦争の時代に遅れて生まれてしまった不幸を常に負い目に感じ」、鬱屈し退屈していた若者の心に火を点けた。「魂の革命」という毛沢東の呼び掛けが、憧れ続けた戦争へのロマンチシズムを導き寄せてしまったのだ。血と硝煙の臭いが鼻を衝く。心を高鳴らせた“毛沢東のよい子”は「鉄の規律だ。臆病者に情けは無用」と街に飛び出していった。
毛沢東思想によって育まれてきた戦闘的な世界観を抱いていた若者が、資本主義への道を歩む実権派、フルシチョフのような人物、叛徒、国民党のスパイ、ブルジョワジーの傭兵、ソ連社会帝国主義者との「最終戦争」の必要性を訴える毛沢東の訴えに飛びつかないわけがない。かくして彼ら世代は、予め定められていたかのように毛沢東による強権政治・独裁体制の強力無比な支持勢力となっていった。
当時を著者は、「若者の誰もが純粋だった。いや、今にして思えば純粋競争をしていたような気もするが、毛沢東主席を守るために必要なら自分の命を捧げる覚悟だった。当時を生きた若者にとって、全身全霊を擲って毛主席と毛主席の掲げる共産主義の大義に奉仕することは光栄であり、余りにも当たり前のことだった」と回想する。
著者は紅衛兵として“革命的な日々”を送っていた66年、67年当時の心境を、「我われは政治的前衛であると同時に道徳的、それも毛沢東思想が指し示す意味での――具体的には『毛主席語録』が説く道徳的意味での社会の前衛を自任していた。“毛主席の立派な紅衛兵”たらん、であった。人民大衆よりも高度に道徳的で、尖鋭な政治的意識の持ち主であることを証明しなければならなかった。正直で、規律を守り、勤勉で、大義のためには滅私奉公すべし、である。いわば気高い信念、曇りなき良心を体現しようと奮闘した。ただし、そこには『毛主席のために』という限定があったが」と綴っている。
著者は「とどのつまり毛沢東は若者に『国家が共産主義に向かって前進すればするほどに、それに応じてブルジョワジーの抵抗も強大になり、中国が強国になるほどにソ連社会帝国主義の圧力は増す。だから国内にあっては資本主義の道を歩む特権階級の抵抗を打ち砕き、資本主義の芽を根絶やしにし、国外にあってはソ連社会帝国主義を打倒し、中国にとっての禍根を一掃しなければならない』と教えた。かくして我われ紅衛兵は、ならば文革を徹底して推し進め、毛沢東に敵対するあらゆる勢力とますます激しく戦う必要があると痛感し敵を捜し求め、勇躍として戦列に加わった」と、紅衛兵当時の心境を明かす。
そして「この歳になっても、フトあの頃が昨日のように蘇り心が弾む。思わず『毛主席万歳』と叫び、体が動き出す自分に呆れ、恐怖する」と結んでいる。そういえば次期共産党トップの習近平(1953年生)も著者と同じ世代だ・・・嗚呼、三つ子の魂よ。《QED》