樋泉克夫教授コラム
川柳>>>>>>>>>>>
《大弁論 大鳴大放 大串聯》⇒《言い放題 やりたい放題 乗り放題》
*毛沢東の敵と看做したら、どんな難癖をつけようが、どんなに酷い仕打ちをしようが許された。そのうえ「大串聯」、つまり経験交流を名目とする全国旅行が奨励される。若者が初期の文革を”自由な空間”と思い込んだところで不思議ではなかった。
【知道中国 662回】 一一・十・三一
――共産主義・・・それは泡で作られた巨象だった
『囁きと密告(上下)』(オーランドー・ファイジス 白水社 2011年)
「スターリン時代の家族の歴史」という副題が示すように、スターリンの強権政治の下で理不尽にも投獄され、殺されていった犠牲者の家族の姿を克明に描きだす。スターリン政治の抑圧の姿や、抑圧を許した人道に悖る非人道的極まりない制度を声高に告発するわけではない。非命に斃れざるをえなかった被害者の心の葛藤、被害者の遺族が強いられた苦難の人生を、彼らが残した日記を読み解き、生き残った者からの聞き書きなどを克明に綴ることで、スターリン政治の冷酷で理不尽な姿を浮かびあがらせている。
ロンドン大学の歴史学教授である著者は、「スターリンが実質的に支配力を獲得し、長期的に影響力を振るうようになった根本的理由は、ソヴィエト国家の構造や個人崇拝システムにあったのではなく、ロシアの歴史家ミハイル・ゲフテルの言葉を借りれば『スターリン主義がソヴィエト市民全員の心の中に浸透した』ことにあった」と看做す。となれば、まさにスターリンのソ連は毛沢東の中国そのものではなかったか。たとえば、
■「子供たちを家庭から切り離し、その上で公共に奉仕するという共産主義的な価値観を叩き込む必要があった」
■「共産主義的な価値観をすべて子供たちの心に根づかせること、それがソヴィエト教育の基本原則となった。その意味では、当時の教育思想家の多くが認めているように、ソヴィエトの学校におけるマルクス主義の役割は帝政時代の学校における宗教の役割に相当した」
■「ソヴィエト国家の創設者を神として祭る政治的神殿を作って、集中的にプロパガンダ資料を展示したのである。政治教育の重要な部分として、レーニンを筆頭とする革命の英雄たちの伝説が繰り返し教えられた。しかし、子供たちの大半はソヴィエト国家のイデオロギーなど理解できなかった。彼らにとって、革命伝説とは『善』と『悪』との単純な戦いだった。革命の英雄たちを主人公とする冒険談を聞いて心を躍らせたのである」
■「アカデミックな勉強と農場での労働を結合して、共産主義とは何かを子供たちに教えようとしていた」
■「実際問題として、一九一七年の革命以後、共産党に入党することは昇進の階段を一段昇ることを意味していた。党員の身分は、官僚のポストにありつくこと、エリートとして社会的地位と特権を手に入れること、共産党国家の支配層の一員になることの前提条件だった」
■「不純分子への恐怖心は共産党指導部が抱えていた深刻な問題、つまり自信欠如の表れだった。幹部の自信欠如こそが、粛清を繰り返すという党風を作り出すことになる。・・・党指導部が人々の間に広めた思考様式のひとつは、同僚、隣人、友人、親族の中に正体を隠した敵が潜んでいるかも知れないという猜疑心だった。この猜疑心が人間関係を破壊する毒となり、一九三七~三八年の大テロルの火を煽り立てる油となった」
■「社会を成立させていた道徳的紐帯も引き裂かれ、自分だけは生き残ろうとする無我夢中の混乱の中で、人々は互いに裏切りを重ねていった」
ところで労働収容所に放り込まれた少女は「食堂の料理人は全員が中国人で、その腕前は最高だった」と回想しているが、こんな所にも中国人が居たとは驚きだ。なにはともあれ、毛沢東はスターリンの忠実な徒弟ということだろう。権力至上で酷薄非情。《QED》