樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 666回】            一一・十一・初八

     ――ならば、“コンビニ歴史観”と名づけましょう・・・

     『金田起義』(広西師範大学歴史系《金田起義》編写組 広西人民出版社 1975年)

 科挙試験に挑戦しては失敗を繰り返し不遇を託っていた洪秀全(1814年生まれ)はキリスト教の教義と中国古典の考えを結びつけ、ある夜の夢に導かれるように地上に万民平等の王国建設を思い立った。先ず拝上帝会を組織し仲間を広げてゆく。天朝田畝傍制を布いて地主から農地を取り上げ、貧しい農民に分配する。いわば毛沢東が農民の支持を取り付けた土地改革の原型といえるだろう。洪秀全の周りには農地を求める農民だけでなく、仕事にあぶれた運送業者、港湾荷役人足、果てはゴロツキなど不平不満分子が集まってくる。かくて1851年、広東省西隣の金田で挙兵。清朝に叛旗を翻し、太平天国を打ち立てた。

 清朝を正統王朝だと看做すなら洪秀全の動きは「乱」。だから一般には「太平天国の乱」と呼ぶが、清朝支配に歴史的正統性なしとする共産党は「太平天国革命」「農民革命」と讃える。この本は後者の立場で書かれているから、書名は『金田起義』でなければならない。

 この本では19世紀の半ば当時を西欧植民地勢力による略奪と圧迫に対するアジア、アフリカ、ラテン・アメリカにおける「民族解放闘争の最初の高揚期」と捉え、太平天国の金田挙兵から瓦解(1864年)までを、世界史的象徴と看做している。まさに毛沢東のいう「何処であれ搾取があり、圧迫があれば、必ずや反抗があり、闘争がある」というわけだ。

 攻略した南京を天京と名づけ都とするなど、一時は揚子江以南を制圧した太平天国だったが、①急拡大する版図に統治機構整備が追いつかない。②版図内農民に平等に農地を分配できなくなった。③地主を中心に各省有力者が結束し郷土防備のための軍隊(=郷軍)を組織し抵抗した(この勢力が後の軍閥の温床となる)。④列強が在中利権確保のため軍事防衛行動にでた。⑤指導部内での対立が激化した――などから、太平天国は崩壊する。

 この本は「金田起義は漢民族人民を主体に、チワンや瑶などの兄弟民族と共同して起こされた」。「太平天国の指導者たちは当初から革命の団結に注意を払い、圧倒的多数の貧苦の農民を自らの周囲に団結させ、分散する革命の力を革命の巨大な流れに結集させた」。「軍民が団結し、上下が団結し、共に手を携えて敵に当たる。これも太平天国の基本的な経験の1つだ」と総括するが、この路線は共産党公認の毛沢東革命路線に酷似している。太平天国評価を装いながら、その実、毛沢東を持ち挙げている。つまり、手前味噌である。

「太平天国革命の偉大な歴史的功績は永遠に消え去るものではないが農民革命にすぎず、やはり階級的・歴史的条件から限界は明らかであり」、「反帝国主義・反封建主義闘争の任務を果たせない。事実が証明しているように、毛主席と中国共産党があり、毛主席の革命路線の指導があってこそ、帝国主義とその走狗による中国の反動的支配に最終的に打ち勝ち、孔孟の道を徹底的に批判し勝利することができるわけであり、歴史に付与された我らの偉大なる使命は完遂する」と結論づける・・・いかにも、御意。ご無理ごモットモ。

 要するに、この本の主張に拠れば、歴史は毛沢東前(Before Mao=BM)と毛沢東後(After Mao=AM)の2つしかなく、AM時代こそが真っ当な歴史であり、BM時代はAM時代を導くための一種の“捨石”でしかなかった、ということになる。これを言い換えるならBM・AM歴史観。どこぞのコンビニ・チェーンの店名のようだが、コンビニを中国語で訳せば「便利店」。ところで「チワンや瑶などの兄弟民族」とは便利な表現だ。少数民族を下に見ているくせに身勝手が過ぎようというもの。徹頭徹尾の自己チューには誠意すら感じられそうにない。そう、コンビニ店員が口にする「いらっしゃいませ、こんばんは」と同じだ。《QED》