樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 668回】            一一・十一・仲二

     ――諸悪の根源は唯心論だけなんでしょうか・・・ねえ

     『哲学史上的先験論』(北京大学哲学系哲学史組編写 人民出版社 1973年)

 「歴史学習は、我々が革命の導き手の説く革命の道理を理解することを、それに現今の内外の階級闘争の情勢をより的確に理解することを手助けしてくれる。かくして我々の階級闘争、路線闘争、プロレタリア階級独裁下における継続革命への覚悟を高めることに繋がる」という視点から編集された『学点歴史』と名づけられた叢書の1巻である。

 執筆担当は北京大学哲学系哲学史組。つまり当時の中国哲学界の最高レベルであり、同時に文革派の筆桿子でもあろう。筆桿子とは権力者の周辺に阿り侍って古今東西の万巻の書から片言隻語を掻き集め、ウソ八百を捻り出し言い掛かりをつけ、政敵を追い詰める役。権力の走狗となって武器を揮うのが槍桿子、筆でヘリクツを捏ね回すのが筆桿子。どっちにしたところで、権力の周辺に屯す無頼漢でありゴロツキ文人といったところだ。

 さて、この本では「人は知識を先天的に持つのか。それと後天的に獲得するのか。これは2000年以上に渡って哲学者たちの間で繰り返し論じられてきた問題である。この問題に対する異なった回答は、認識論において根本的に異なった2つの哲学路線を形成している。つまり唯物論的反映論と唯心論的先験論の闘争である」と問題を提起した後、中国では孔子、孟子、董仲舒、朱喜(朱子)、王守仁(王陽明)を、ヨーロッパではプラトン、カント、ヘーゲルなどを取り上げ、彼ら凡ては先験論者であり歴史の進歩を阻もうとした。かくて人民の歴史に対する“犯罪者”であると断罪されている。

 「哲学史上、知識はどうしてもたらされるのかという論争は、とどのつまり誰が歴史の創造者であり、歴史を創造するのは奴隷なのか英雄なのかという歴史観に関する論争と密接に関わっている。唯心論的先験論とは、つまり各種各様な唯心論的天才論と歴史は英雄が創造するという唯心史観の論拠となっている。こういった論争における凡ての本質は、いうならば最終的には誰が歴史の主なのかということであり、誰が国家と世界の命運を握るべきかという問題である。この論争は、最終的には各時代情況における激烈な階級闘争を反映しているのだ」と説きもする。

 さすがに筆桿子の面目躍如というべき文章だが、「孔子の唯心論的反動学説は、我が国歴代の反動的統治者が継承し、利用した。漢代以来、孔子の思想は我が国封建社会の統治思想となり、地主階級が農民を統治し奴隷扱いするための精神的道具とな」り、こういった先験論は「孔子から王守仁に到るまで、理論的には精緻さを加え、次々に目新しい理論を展開した。だが、どのような装いを凝らそうとしても、宗(ねっこ)から離れることはなかった」と論ずる一方、西欧の先験論については、たとえばヘーゲルを取り上げ、その「唯心論的天才論と英雄史観は極めて反動的であるがゆえに、なんらの驚くべきことではないが、帝国主義の時代に到って、彼のこのような思想のクズはドイツ・ファシズムの理論的根拠の1つとなった」と断定している。

 人類の思考の歩みを、なにがなんでも唯心論と唯物論に2分し、唯心論に歴史後退の全責任があるという硬直した考えもまた唯心論の一種といってもよさそうだ。ところで、スターリンは「わたしが信じるのはひとつだけ。人間の意思の力である」と口にしていたそうだが、これぞ唯心論の極致といえませんかねえ。唯物論的唯心論・・・なんだコリャ。《QED》