樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 669回】          一一・十一・仲四

    ――諸悪の根源は儒教です・・・ハイ、孟子わけありませんでした

    『孔家店二老板 孟軻』(蘆湾区工宣弁《孟軻》編写組編 上海人民出版社 1974年)

 古来、孔子を「至聖」、孟子(孟軻)を「亜聖(二番目の聖人)」と呼んで崇め奉ってきた民族である。にもかかわらず孟子を「孔家店(儒教屋)」の「二老板(二代目おやじ)」とあざけり茶化す。ならば孔子は「頭老板(初代おやじ)」。儒教の聖人を2人してかくも蔑んでおきながら、21世紀初頭の現在、孔子学院のカンバンを掲げ、なにやら“遠大な計画のようなもの”に基づくソフト・パワーとかで世界各国を震撼させようと企てるばかりか、冗談を通り越しての孔子平和賞だ。歌丸師匠ならずとも、「山田クーン、座布団10枚」。

 40年ほどの昔をキレイさっぱりと忘れたのか。それとも昔は昔、今は今なのか。いったい、この民族の頭の構造はどうなっているのか。いくら考えても判らない。判らないから興味は尽きない。興味は尽きないから面白い。面白いから探ってみたくなる。

 だが、いくら探ってみたところで、「孔子のバカタレが死んでから百年近く。孟軻はヤツの衣鉢を受け継いで奴隷制を復辟しようという反革命活動を継続した」という「前言」の書き出しの一節を読めば、この本は読み終わったも同じ。だが、そういったら身も蓋もない。そこで無理に我慢を重ね合わせて読み進み、想像を逞しくしてみるが、やはり結論が変わるわけではない。やはり「孔子のバカタレが死んでから百年近く。孟軻はヤツの衣鉢を受け継いで奴隷制を復辟しようという反革命活動を継続した」という結論に行き着いてしまう。堂々巡りというわけで、どこを読んでも面白くない。ともかくも徹頭徹尾に面白くない記述が続くが、敢えてクスッと嗤えそうなのが、孟子が死に臨んだシーンだろうか。

 畢生の大著である『孟子』を書き終えると、孟子の人生に残された時間はなかった。

 「ある日の黄昏。孟子は病床でどうにか身を起こし、弟子を呼ぶ。息も絶え絶えに、『周の時代の聖人である文王の治世から遅れること500年ほどの時代を生きた孔子(せんせい)は文王の徳治政治を受け継いだ。克己復礼は、万古不易である。先生と左ほど違わない時代を生き、故郷も近い。ワシは直伝の弟子じゃ。先生の事業を引き継ぐのが道理というものだ。だが復礼の大業は未完成のまま。これでは死んでも死にきれん』。ゴホッと咳をし、最後の残った気力を振り絞るかのように続ける。『幸いにして、この『孟子』がある。先生の大業を後世に伝えるうえで、少しばかりのお役には立てよう。ワシが死んだ後、お前たちは、この書物に書き記して置いた“仁政”や“王道”を引き続き宣揚し、先生が求められた復礼という大業を、きっと、きっと完成させるのじゃ。必ず、かならず。頼んだゾ』」

 まるで見てきたようななんとやらだが、この部分の解説がケッサクだ。

 「この奴隷制復辟を企てた死にソコナイは死に臨んでもなお反革命輿論のデッチあげを忘れず、死んだ後になっても崩れ去ってしまった奴隷制を呼び戻そうと、進歩勢力に対して反抗しようなどと妄動する。だが、ヤツの願いとは裏腹に歴史は未来に向かって滔々と流れ、70、80年後には、秦の始皇帝が歴史発展の潮流に応じ、商鞅による変法を基礎に、法治主義による革新路線を堅持・発展させ、中国を統一し、地主階級による中央集権の専制国家を打ち立てた。孟子一派による奴隷制復辟の儚い夢は徹底的に破産した」という。

 こうまで大口を叩いておきながら、臆面もなく孔子学院に孔子平和賞だ。巧言令色というか厚顔無恥というか、どうしようも孔子ようもなく処置なし。だが、沈黙は禁だ。《QED》