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樋泉克夫教授コラム
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【知道中国 672回】 一一・十一・二十
――芝居は人民を篭絡する最良の手段だった
『禁戯』(李徳生 百花文芸出版社 2009年)
古来、中国の民衆にとって芝居は最大の愉しみだった。集会が禁じられた時代にあっても、年数回開かれるだけの廟会(=縁日)は例外であり、廟会の華である酬神戯(=奉納芝居)見物に託けて人々が群れ集いうことは許されていた。かくして芝居は、彼らを騙して手なずけようと考えた権力者や革命家にとっては簡単で便利な道具となる。権力者が勧善懲悪芝居を見せて大衆の教化・訓致を目指せば、世の中をデングリ反そうと考えるヤツラは悪党が主人公の芝居を演じ、悪党こそが人民の苦しみを救う義人だと鼓吹し叛乱をけしかける。権力掌握後も芝居を使って思想を統制し、政敵潰しに努めたのが毛沢東だった。
役者は舞台の上で、勧善懲悪から卑猥淫蕩まで、捨身救国から卑怯売国までを表現してしまう。背筋をピンと伸ばして見なければならない勧善懲悪を見飽きると百花繚乱の卑猥淫蕩を、手に汗握る英雄もいいが時には唾棄すべきほどの卑劣漢の残忍極まりない姿も見たくなるもの。いわば非道徳・反社会的芝居を誰もが好む。だが度が過ぎると社会の良俗に反し、秩序を乱してしまう。そこで封建王朝時代から現代まで、政権は自らの正当性を貫き社会の規範を守るため、“反社会的”な芝居を禁止してきた。これが禁戯である。
この本は清朝後半から現代まで、加えるに台湾以後の国民党を含む歴代政権が指定した180本ほどの禁戯を挙げ、その粗筋と主な公演記録、それに禁止理由を記したものである。
ここで興味深い例を挙げるとするなら、やはり「四郎探母」だろう。
この芝居は宋朝を侵略する異民族に対し、一族が数世代を挙げて抵抗した楊家の奮闘と悲劇を綴った『楊家将演義』を種本とする。戦闘中に敵に捉えられた楊家の四男である楊四郎は心ならずも敵の王女と結婚することとなった。15年が過ぎ、一児を授かり不自由のない生活を送っていた彼の耳に風の便りが。益荒女ぶりも凛々しい母親が一族を率いて最前線に陣を布いたという。なんとしても母親の顔を見たい兄弟や元の家族に会いたい。夫の苦衷を知った妻である王女は、軍律を犯ひてまでも四郎の願いを叶えてやる。その後の展開はさておき、この名狂言の問題は敵に降り、おめおめと生きながらえている点にある。
日中戦争当時、民衆は四郎を「不忠不孝、敵に降った叛徒だ。侵略者との死闘の最中に敵前逃亡し、敵の王宮に囲われ、しかも敵の王女と子供まで。国家・民族を蔑ろにするも甚だしい不埒な野郎」と蔑み憤慨し、かくて「民族意識が極端に欠乏した」ということで、当時の中国政府、つまり蒋介石率いる国民政府により上演禁止となった。
国共内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ後も禁止。理由は民衆に里心を起こさせないため。打倒共産党を最大の政権課題としていた蒋介石政権が最も恐れたことは、外省人の大陸反抗の闘志が萎えることだったようだ。だが蒋介石の死の3年後の78年、台詞や演出に些か手を加えながらも上演が許された。“蒋介石の怨念”から台湾が解放された瞬間だった。
一方の共産党政権は延安当時から禁止。政権樹立後は直ちに「有害芝居」に指定。56年の自由化によって上演が可能になったが、57年3月の毛沢東による「四郎は漢奸だろう」の一言で上演不可。以後、反右派闘争では四郎は「国に反し敵に投降した」ということで、文革では「叛徒、反革命の反動芝居」と看做され厳禁。改革・開放に踏み切った直後の試演は、幹部の横槍が入り上演自粛。80年代後半になって、やっと上演が可能となった。
中国では芝居は政治で、政治は芝居。このカラクリに引っかかってはいけません。《QED》
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