樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 676回】           一一・十一・念八

     ――嵐の前は・・・小春日和だった

     『新的“石器時代”』(陳仁 中国青年出版社 1966年)

 天安門広場で待ち続ける100万人を超える紅衛兵。やがて天安門楼上に毛沢東が現れるや、広場はたちどころに熱狂の坩堝と化す。狂喜乱舞する紅衛兵。世界を震撼させ、改めて中国がワケの判らない神秘の国であり、指導者のみならず人民の振る舞いまでもが理解不能であることを強く印象づけた文化大革命という政治的大芝居の幕が開いた瞬間だった。この本は、そんな“狂気の時”から半年ほど前に出版されたている。

 「新型硅酸塩材料的世界」という副題が示しているように、この本は、当時無限の可能性を秘めた新素材と大いに期待されていた硅酸塩(silicate)と人類の関わりを石器時代から説き起こし、やがて人類の輝く未来を約束する万能の科学素材であることを語る。科学ドキュメンタリーでもあれば、空想科学物語でもある。「科学技術成就叢書」と銘打たれているのも、そのゆえだろう。

 「古代の労働人民は絶え間ない実践の末に」、「湿った粘土を捏ねて器のようなものを作り火に放り込んで焼くと、冷めた後に石と同じ程度に固くなることに気が付いた」。かくして「我われ人類は銅や鉄といった金属材料を発明して後、(腐りも錆びもしない)石器に似た素材の陶器とガラスを産み出したのだ」。これが、硅酸塩物語ともいえるこの本の発端だ。

 ここで不思議に思えるのが、「古代の労働人民」ということばだ。おそらく文革期なら「古代の労働人民」ではなく「古代の奴隷労働者」と表現していたはず。なにがなんでも古代は奴隷制でなければならず、ましてや技術の進歩を担ったのは奴隷でなければならないという硬直した文革史観からすれば、「古代の労働人民」が「陶器とガラスを創造した」などという曖昧な表現は人類の進歩に尽くした奴隷の働きを否定するものであり、断固として認められないものだったはず。

 その後、人類は「誰でもが知っている硅酸塩の家系の始祖である玻璃(ガラス)」に様々な工夫を加え、鉄より固く超高温にも耐えられるガラス、光線を遮断するガラス、レーダー波を透すガラス、さらには繊維のように細いガラス、鋼より固いガラス、ダイオード、電子計算機の「脳細胞」などを次々に発明する。セラミックの発明によってジェット機やロケットの燃焼機関の性能は飛躍的に向上し、「特殊玻璃鋼」で作られた先端部分を取り付けることで大陸間弾道弾の弱点が解消され兵器としての性能・威力が格段に増した。また、原子炉内部に新型の硅酸塩素材を使うことで超高温環境での核反応コントロールが可能となり、有限の化石燃料に頼らなくてもいい夢の発電システムが約束される。やがては「ラジオは繭玉ほどに、電子計算機はたばこの箱程度の大きさになるだろう」。

 「旧い視点で新しい時代を推し量ることは不可能」とし、「人々の考えに考え、失敗を恐れずに敢えて挑戦する革命精神を発揮して、多種多様な用途を秘めた新型硅酸塩素材を創造し、古くから知られた硅酸塩を進歩する新しい時代に生かしていこう」と締め括る。

 この本には政治主義一辺倒の記述も、人類の闘争が歴史を動かす式の毛沢東思想的な杜撰で荒っぽい歴史観も、ましてや文革に見られたド派手な血腥さも感じられない。進歩する科学技術への素朴な期待と信仰が行間に溢れ、万能の科学技術を誰もが享受できる明るい未来への希望が熱っぽく語られているだけ・・・このまま済めばよかったものを。《QED》