樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 688回】             一一・十ニ・念五

    ――その意気や壮・・・だが、高踏遊民の寝言にすぎない

    『毛沢東主義』(三浦つとむ 勁草書房 1976年)

 著者の著作は学生時代に親しんだが、理解不能に近かった。特に難解とも思えなかったが、当時の“革命理論家”に共通したクソ生意気で生硬な語り口、いや一種独特のエリート臭に嫌味を感じたからだろう。それから40数年が過ぎた現在でも、よく判らない。

 先ず著者は、「かなり以前からの私の関心事」は「毛沢東の死後に中国がどう変わっていくかという問題」だったと記す。それというのも「大統領が変わったときのアメリカや、党の書記長が退いたときのソ連の問題とは違」い、「国家の最高指導者が理論家で、生前は彼の理論が国家の諸政策を決定し、死後にその著作ばかりか理論を絶対的なものと信じ切っている多くの人々が残された」という「重要な特徴がある」からだそうだ。

 「いま毛の死亡という現実に直面して、世界が毛沢東時代をふりかえり、それをふまえて今後の中国のありかたと自分たちへの影響を考えている」が、「それを実りあらしめるには、まず毛沢東主義の功罪を理論的に把握し、この理論がどんな成果をもたらしどんな傷あとを残したか、その誤りを是正す」べきだとする。かくて「毛沢東主義の検討と誤謬の是正は、マルクス主義理論家にとっての義務である」との決意を固め、「毛沢東主義の理論と実践の歴史的な検討をすすめて」てきた。毛沢東の死を機に、「毛沢東主義の功罪と今後の中国について考えようとする人びとのために、資料として」この本を出版したそうだ。そして「事実上の非毛沢東化がすすむ中で、心ある中国の人びとにも本書が役立つことを期待する」としている。まあ、大きなお世話だとは思うが、その心意気はステキだ。

 著者は先ず毛沢東主義を「一面的に・しかも歪められたかたちで・継承され、さらに畸形的に発展させられたマルクス・レーニン主義」であり、「その小ブルジョワ性や民族主義は、その畸形的な発展を促進させ誤謬に固執させるために役立っている」と看做す。つまり毛沢東主義は独りよがりで普遍性がないと否定的に看做しているわけだが、その一方で、「イデオロギイは創始者から独立して存続しうる。毛が死んでも毛沢東主義は中国を支配しうる」と将来の中国における毛沢東主義の有効・有用性を大いに認めたたうえで、「毛沢東主義は中国人自身の手で止揚されるべきものであって、われわれはそのために理論的に協力する義務がある」などと、愚にもつかない“理論的義侠心”を発揮してみせる。

 毛沢東主義は「革命運動の指導者における理論と実践の統一」の過程で必然的に生まれたとする著者は、「毛が死んでも毛沢東主義とその信者は残されるし、再生産されていくであろう。われわれ中国革命を支持する者の義務は、毛沢東主義をその原理原則から体系的に批判した真のマルクス・レーニン主義を中国の人民と革命家に与え、毛沢東主義の幻想をその根底から一掃させることである」と固い決意を明らかにした。

 確かに著者は毛沢東主義に果敢に挑み、所期の目的である毛沢東主義の理論的欠陥を衝くことには成功したようだが、毛の死から36年余り過ぎ、いまや中国では毛沢東は魂の抜けた仏像といってもいい扱われ方だ。著者の「毛沢東主義とその信者は残されるし、再生産されていくであろう」という願いは怒濤の金満社会に春の淡雪のように消え、彼の理論的格闘は残念ながら徒労に終わったようだ。その原因は、著者が生身の中国人に全く関心を示そうとしないからだ。中国人を知らな過ぎる。無知蒙昧・・・ただ、それだけ。《QED》