樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 693回】            一ニ・一・初一

     ――この人を見よ、この声を知ろう・・・

     『曹操的故事』(盧湾区工宣弁《曹操的故》編写組編 上海人民出版社 1975年)

 これは曹操を主人公とする「通俗読物」ではあるが、やはり批林批孔が盛んだった当時の出版である。「マルクス主義の立場、観点と方法を用いて儒家と法家の闘争と階級闘争全体の歴史的経験を研究し、法家の立場に立つ人物の歴史上の働きを正しく評価し、孔孟の道と尊儒反法の思潮に対する批判を深化させる」という「重要な戦闘任務」を帯びて出版されている。それゆえに曹操の生涯を儒教と戦った徹底した法治主義者として描き、「紀元二二〇年正月、法家の代表的人物である66歳の曹操は、中国統一の願望を完成させることなく、法治を励行した生涯を洛陽で卒えた」と結んだとしても無理からぬこと。

 だが反儒家で法家、或は厳格な法治に努めた曹操といったイメージを無理やり作り上げようとする余り、従来から語り継がれてきた曹操と辻褄の合わなくなってしま。たとえば、強大な権力を掌握した董卓の手から逃れるべく密かに洛陽を後にする曹操について、

 この本では、洛陽から成皋に辿り着いた曹操が一夜の宿を借りようと友人の呂伯奢を訪ねる。不在の呂に代わって、酒と賭博に興じていたゴロツキの息子と仲間が応対することになる。曹操の膨らんだ財布、素晴らしい馬に目が眩んだうえに曹操の首に莫大な懸賞金が掛けられていることを知っていた彼らは、曹操を殺してカネと馬を奪い、その後で董卓からご褒美をせしめようと衆議一決。追手の厳しい追求を振り払っての逃避行に疲れてグッスリと寝入った曹操の夢に愛馬の嘶きが。厩に急ぐと、馬を盗もうとしている。一喝する曹操に刀を振り上げ、「お尋ね者を捕まえるまで」と。そこは百戦錬磨の曹操だ。全員を返り討ちに斬って捨て、「自業自得だ」と呂の家を後に逃走の道を東へ。中牟県の県城で逮捕され県知事の前に引き出されるが、知事側近の知恵者のお陰で釈放された。

 一方、中国人が愛読して止まない『三国演義』が種本の京劇「捉放曹」では、中牟県で逮捕されるが、董卓の悪行を憎む知事の陳宮が曹操の縄を解き、官位を捨て曹操と行動を共にする。呂伯奢の家に一夜の宿を願い出るところは同じだが、ここからの展開がまったく違う。呂は在宅していて大歓待。酒を切らしているのでと、馬で街に買出しに出かける。疲れを癒すべく部屋に案内された曹操と陳宮。ウトウトしている曹操の耳に、チャリンチャリンと刃と刃とが触れ合う音。それに続いて「殺せ、殺せ」の声。殺気を感じた曹操は刀を抜いて部屋から躍り出て、呂の家族全員を切り捨てる。改めて斬殺現場をみると、殺されたブタと包丁が。家族は呂に命じられて夜の歓迎宴の準備をしていたのだ。

 慌てる曹操。「先ずはこの場を立ち去るべし」と陳宮に急かされて逃げ出す。しばらく行くと、向こうから酒を手にした呂伯奢が。「なにを然程に道を急がれるのか」と。「じつは急用を思い立ち」。すれ違いざまに曹操は刃を呂伯奢に振り下ろす。「無益な殺生を」と咎める陳宮に向かって、曹操は「寧我負天下人、天下人不負我(俺は天下に背いても、天下を俺に背かせない)」と応える。舞台で曹操役者がこの台詞を口にして見得を切ると、満座の客は沸きに沸く。京劇名狂言の見せ場。誰もが恐くて強い曹操が好きなのだ。

 智謀・知略の孔明に対し奸智・粗暴イメージの強い曹操だが、「寧我負天下人、天下人不負我」の12文字に我を貫き徹そうという強い意志を感ずる。この12文字を体現させた者こそが中国人にとっての権力者に違いない。文革をはじめようとした毛沢東も改革・開放に大転換しようと考えた鄧小平も、その脳裏に曹操の12文字が浮かんだのではないか。

 中国人が慣れ親しんできた曹操は、この本の描く戦上手の法治主義者ではない。「寧我負天下人、天下人不負我」で一生を貫徹した身勝手で自己チューの・・・元祖です。《QED》