樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 696回】            一ニ・一・初五

     ――バカも休み休みに願います・・・(その5)

 昨年大晦日の「産経新聞」一面の「道しるべなき世界を後に」と題する「人界観望楼 外交評論家 岡本行夫」は、地震・津波・原発に加え民主党テイタラク政権という四重苦を背負うこととなった年のどん詰まりにしては情けないばかりの“迷論”だったようだ。

 冒頭で岡本は「全くの漆黒の闇にな」った夜の海では「どっちが海面なのか海底なのかも、わからない。道しるべは、自分の吐く息の気泡。それが上昇していく方向が海面だ」と枕を振った後、「だが今の世界は、海面に出る道しるべさえなく、もがいているように見える」と語り、現在の世界が抱えた混迷情況を喩える。確かに自分の吐く息の気泡は重力の法則で自然に海面に向かうだろう。だが、混迷する世界の解法は自然の摂理に従っていれば何処かから与えられるものではないはずだ。

 次に岡本は民主主義に話題を移し、「パレスチナの自由選挙でハマスが勝ち、イランでアフマディネジャド大統領が勝てば、アメリカはこれを民主主義とは認めない」とする。だが、アメリカが「認めない」なら「民主主義」ではないとでもいうのか。アメリカが自己流の正義と「民主主義」を身勝手に振りかざした挙句に、アフガニスタンやイラクという「道しるべなき世界を後に」したことが今日のイスラム世界の混迷の原因の1つだろうに。

 転じて岡本は「一党独裁国家の中国が、自らを民主主義国家と名乗る。民主主義とは何か」と、北京が「民主主義国家を名乗る」ことに異を唱える。だが、そう批判されても北京は痛くも痒くもないはずだ。一党独裁を前提にした毛沢東流の新民主主義にしても、共産党が社会の①先進的生産力、②先進文化、③広範な人民の根本的利益を代表しているという江沢民の「三つの代表論」にしても、これこそが民主主義の中国化であり中国の特色を持つ民主主義だと居直っている現状を、ゴマメの歯軋りの如く異を唱えるだけで突き崩せるとでもいうのか。

 次いで岡本はアメリカのアジア回帰を論じて「中東を後にし、国益をかけて再びアジア太平洋に入ってきた」とした後、金正恩時代の北朝鮮を俎上に上げ、「将軍と呼ばれた金日成が王朝を樹立してから六十有余年。徳川将軍家で言えば4代・家綱あたりだ。徳川の家臣たちは当たり前に世継の将軍を受け入れていた。『政治的指導者は世襲であってはならない』」というのは、われわれの側の常識にすぎない」といってのける。だが、ここでいう「我われの側の常識」は、実は岡本の“個人的常識”にすぎないのではないか。徳川将軍家と金王朝を同列に論じようなどという奇想天外で突飛な発想は、いったい何処から生まれるのか。全く以って理解不能だ。

 さらに岡本は「金正恩が柔軟路線をとることはあるまい」と断言する。その昔、「国際情勢は不可解」と嘆いた日本の首相がいたが、国際政治とは魑魅魍魎が弄する世界だろう。かつてエジプトでサダトがナセルの、ムバラクがサダトの後継として登場した時、世界の大部分のメディアがサダトやムバラクを「小物、短命」と評していた。だが「結論を急ぐ必要はない」との声もあった。確かキッシンジャーだったように記憶するが。ナセル亡き後、サダト暗殺後のエジプトの展開を考えれば、やはり短兵急に結論を出すことは危険だ。

 「松明は高く掲げてほしい。誰からも見えるように」と結び、野田首相にエールを送る。だが、半世紀以上も昔の中学生の弁論大会で使い古されたような抽象的言辞を弄してもらっては困る。具体的に、なにを、どうするのかを提示し説得することこそが、沖縄基地問題でタップリと汗をかいたと伝えられる「外交評論家」の責務だ。お願いします。《QED》