樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 706回】           一ニ・一・念二

    ――巧言粉飾にマユツバを・・・やはり注意一生です

    『語法 修辞 邏輯 一・二・三分冊』(上海人民出版社 1975年)

 この本を編集した「《語法 修辞 邏輯》編写組」は上海師範大学と復旦大学の中文系によって組織されている。表紙に「上海市大学教材 試用本」と書かれているところをみると、上海の大学で正式採用された教科書ではないということになる。その後、この本が大学の教科書として正式採用されたのかどうかは不明だが、巻頭に掲げられた「毛主席語録」から、出版の狙いが判る。

 「我われの多くの同志は文章を綴る際に大いに党八股を好み、生気がなく、実態から離れ、読み手は頭を痛めてしまう。文法にも修辞にも心を配らず、古い文章体と会話体とが混じった文体を好み、時にバカバカしい文章を綴り、時に懸命に古臭い文体をものし、まるで彼らは読み手に苦痛を与えることを決意しているようだ」と、党官僚特有の型に嵌った訳の判らない文章を「党八股」と呼んで徹底的に退け、誰にでも判り易いような生活に根ざした判り易い文章を書くことを主張している。

 そこで毛センセイのお手本をみておくと、たとえば「人が1人生まれれば口は1つ増えるが、手は2本増える。だから生産は消費を上回る」とか、「白い紙にはなんでも描ける。『一窮ニ白(徹底した貧乏)』の中国は白い紙だ。貧乏は中国の特徴だ。だから中国は何でもできる」とか。

 毛沢東は前者で人口は出産を制限しなければ将来的に中国は破綻するとの人口学者の考えを徹底して批判し、後者を掲げて無謀極まりない大躍進政策を強行した。確かに「人が1人生まれれば口は1つ増えるが、手は2本増える」。そこで口を消費、手を生産に喩えたものの、人口は幾何級数的に増加するが、生産は算術級数的にしか増えない。「だから生産は消費を上回る」わけではない。もちろん「白い紙には何でも描ける」が、素晴らしい絵になるかどうかは描き手の腕次第だ。確かにリクツ抜きで判り易く、取り敢えず人民は信じ込んでしまいそうだが、冷静に考えると何処か間尺に合わない。だが権力が異議を唱えることを封じ込んでしまう。かくして悲劇的結果を招き寄せてしまったわけだ。

 この本は冒頭で「何が修辞か」と問題提起し、「我われは社会実践のなかで、言葉を使って思想を交流し宣伝を進めるが、とどのつまりは話すことであり文章を書くことだ」。「正確に、鮮明に、生き生きと客観事物を反映させ、言葉を推敲し練磨しなければならないが、これは決して単なる言語問題に止まるものではない」と説き、自らの考えを相手に納得させる(いいかえれば相手を誤魔化し、信じ込ませてしまう)ためには語法(文法)・修辞・邏輯(ロジック)を学ぶことが絶対不可欠であるとする。多くの国民に総スカンされているような増税策を高々と掲げ「不退転の決意」を口にし、「ネバー、ネバー・・・ネバー・ギブアップ」などと口にして悦にいっているような政治家ではダメ、ということだろう。

 これを要するに、この本が出版された文革時であれ現在であれ、中国においては語法・修辞・邏輯を学んだ者が権力を握れるということ。逆にいうなら、思うが侭に権力を揮わんと望む者は言葉によって人民を煽て、煽り、誑し込み、恫喝するために語法・修辞・邏輯を自家薬籠中のものとしなければならない。いわば語法・修辞・邏輯の学習と研鑽と練磨とは権力への道ということになる。

 これを語法・修辞・邏輯に対する中国式学習の“王道“というのだろうが、毛沢東は「99回説得してもダメなら、100回目にはブン殴れ」と。やはり最後は腕力ですかネェ。《QED》