樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 707回】            一ニ・一・念三

    ――あれから20年・・・これからの10年

 今から20年前の1992年1月18日、鄧小平を乗せた列車は北京を発って南方の武昌に向かった後、改革・開放の最前線だった広東省の深圳、珠海を経て上海へ。避寒の旅ではない。深圳の最高層ビルから遠望した香港の繁栄ぶりに愕然としたとも伝えられているが、この時、鄧小平が口にしたのが南巡講話だ。89年の天安門事件を機に開放政策に消極姿勢を見せる幹部の尻を、「纏足した女のようなヨチヨチ歩きはダメだ」と蹴りあげた。かくて経済開放は一気に加速し、今日の“繁栄”に繋がることになる。指導者の一言が保守派の雑音・不満を強引に封じ込め、国を挙げて開放に向けて突っ走らせたわけだ。

 開放政策に抵抗している保守派に「纏足した女」、いわば時代遅れのマイナス・イメージを重ね合わせた見事なまでの修辞だが、もう一つの忘れてはならない点が南巡という言葉の持つ歴史的意味合いだろう。清朝の歴代皇帝は時に長江下流域に向かい、現地を視察し芸能などを楽しんだ。これを皇帝南巡と称したが、皇都・北京から遥かに遠い江南の地に皇帝の威容を見せつけることで、南方の人民を平伏させようとしたのだ。まさに鄧小平による南巡講話は清朝歴代皇帝の南巡をイメージさせるに充分だった。鄧小平を清朝盛時の皇帝にダブらせ、誰が絶対的な権力者かを反対派と人民に思い知らせたのである。

 鄧小平の南巡講話の前年、日本ではバブル経済が崩壊し、以後は「失われた10年」の惨状だ。講話翌年には細川連立政権が成立し55年体制は終焉を迎えたものの、その後の政治のテイタラクは目を覆うばかり。政界地図はパッチ・ワークの様相を呈したままである。

 講話10年後の02年には中国はWTOに加盟し、それから10年ならずしてGDPで日本を抜いた。まさにイケイケドンドン。世界第2位の経済大国に相応しい国際的地位をタテに、傲慢にも無理難題・勝手放題。一方の日本では「失われた次の10年」が始まる。

 講話10年前の82年、鄧小平による人民公社解体によって農村から解き放たれた農民は、ただ同然の安い労働力と化して外国企業に提供されることになる。これが「世界の工場」への第一歩だった。一方の日本では同年、ホテル・ニュージャパンの火災や日航機羽田沖墜落など、成長の歪み、あるいは気の緩みが目立つようになった。

 講話20年前の72年、北京では前年に起こった林彪事件の後遺症処理を巡る混乱が起こると同時に、毛沢東はニクソン米大統領を自らの書斎に招き米中接近を内外に強くアピールし、それまでの文革造反外交を弊履のように捨て去り、勇躍として国際社会に参入する。この年、日本では連合赤軍による一連の“総括事件”が世間を震撼させた。

 更に10年遡る62年、北京では大躍進政策失敗から一時逼塞していた毛沢東が政治的復活に転じた。集団社会に適応する「私心なき共産主義英雄」を讃える運動を展開する。数年後の文革に繋がる「社会主義教育運動」を全国に拡大し、ひたすら人民に「為人民服務」を求めた。一方の日本は「三丁目の夕日」の時代の真っ只中に在った。

 更に10年遡る52年、日本では前年に日米安保条約と共に調印された講和条約が発効しているが、北京は朝鮮戦争への対応に追われると共に、前年から続く反汚職・腐敗キャンペーンに追われていた。建国直後の清新の息吹に溢れたいたはずが、それは社会の上っ面だけのこと。じつは党・政府幹部と共産党と手を組んだ資本家による汚職・腐敗は、すでに猖獗を極めていた。かくて汚職・腐敗は毛沢東時代を生き延び、いまや見事に復活した。

 さても今日は春節元旦。中国をはじめ台湾、香港、東南アジアなどで「恭喜発財(カネ儲けバンザイ)」と年始挨拶が飛び交っていることだろう。先ずはゴ同慶の至りデス。《QED》