樋泉克夫教授コラム

  【知道中国 721回】             一ニ・三・初四

      ――徐復観、唐君毅、牟宗三、そして銭穆


 香港で発行されている『亜洲週刊』(1月29日~2月5日号)に「徐復観与胡蘭成唐君毅羅孚的奇縁」という長文が掲載されていた。50年代から80年前後まで、香港・台湾・日本・中国を舞台に展開された共産党と国民党の間の学術・思想界における統一戦線工作の狭間に生きた学者の姿が綴られている。表題に記された徐復観と唐君毅、それに文中に登場する牟宗三、銭穆――4先生の面影が、70年代前半の5年ほどを過ごした香港での日々と共に思い出される。

 この文章の筆者で徐先生の教え子に当たる台湾東海大学の陳文華教授によれば、徐先生は1904年生まれの湖北人で、日本に留学し明治大学や陸軍士官学校に学び、日中戦争当時は国民党政府軍少将。軍令部連絡参謀として共産党の根拠地である延安に駐在。共産党の政党組織としての優位点を率直に報告したことから蒋介石に重用され、49年末に国民党が台湾に渡った後に蒋介石の資金提供を受け、香港で統一戦線工作の一環として『民主評論』を経営したが、やがて思想信条の面から自由を求め、遂には国民党を離れたとのことだ。

 じつは共産党政権成立が現実化するようになった40年代末、共産主義社会での自由な研究は不可能と考えた少なからざる学者が香港に逃れてきた。台湾の蒋介石政権に合流した者もいれば、蒋介石政権下の台湾でも毛沢東政権下の大陸と同じように政治的制限は不可避であり、自由な学術研究などありえないとの学問的信念に基づいて英国植民地の香港に留まり、自らの研究を進める一方で若者を育てようと考える読書人たちがいた。

 歴史学の銭穆、哲学と思想の唐君毅と牟宗三と徐復観、歴史地理学の厳耕望、経済史の全漢昇、近代史の王徳照、「紅学」と呼ばれる『紅楼夢』研究の潘重規、東南アジア史の陳荊和、それに羅夢珊――彼らは中国古典を軸にすえた自由な学問研究と教育の塞として、香港に新亜書院と大学院に当たる新亜研究所を築く。

 三島事件の直前の1970年秋、羽田を発って香港へ。当時、新亜研究所のキャンパスは98年に閉鎖された啓徳香港国際空港から歩いて10分ほどの農圃道にあった。

 台湾に去った銭穆先生に代わって新亜書院・研究所を束ねていた唐君毅先生の授業は、儒学からインド仏教哲学まで。まさに天空を自在に飛び跳ねる天馬のような勢い。板書してくれるのはいいが、消すことはない。文字の上に文字を重ねるから読みとれない。加えて四川訛りがきつくて、なにを話しているのかよく判らない。興に乗れば授業の終わりを告げるチャイムを無視して講義を続行する。中国人の先輩に講義の内容を尋ねるが、「俺にもよく判らない。先生の著作を読むしかないな」。だが、その著作がまた難解の極み。

 唐先生宅での春節宴に参加した際、先生の話す中国語について質問すると、「中国で綺麗な中国語を話す学者にロクナモノはいない。そんなヤツラの講義など聴講する必要ない」と。以来、その時の唐先生の教えは固く心に留めてきた。徐先生は元軍人らしく時間に正確。黒板の字は崩すことなく、講義は懇切丁寧で判り易かった。牟先生は痩身短躯をゆったりとした中国服に包み、立ち振る舞いも講義も常に飄々としていた。

 陳教授によれば、80年5月、徐先生は鄧小平の指名で北京に招かれた。費用一切は中国側が負担するとの申し出に、「祖国はまだ貧乏だ」と応える。北京への出発を前に体調を崩し、ついに鄧小平との面談は叶わなかった。北京で鄧小平と会っていたら、はたして徐先生は鄧小平が押さえる共産党の統一戦線工作に応じただろうか。

 共産党にも国民党にも与さなかった先生方は、いまや新儒学の権威として中国大陸でも再評価される。あの頃、もっと学んでおけばよかったものを・・・後の祭りです。《QED》